棚がほしいが、棚には壁が必要で、本当のところは壁がほしい。壁は家があってこそで、本当は家がほしいが、夫婦で充分過ぎるほどの居住面積があるのに、棚に並べられない本やCD、壁にかけられない絵が溢れ返っている。

そう思いながらこのまま死ぬはずだが、専用の棚に並べたい特別の本がある。まだ買っていない5,6冊は年内には手に入れるつもりで、専用棚に収める本は全部で50冊ほどになる。大半は洋書で、その揃った背表紙をゆっくりと眺めたいが、死んだ後にその本がどこへ行くのかを考える。筆者の思いを理解してくれる人に1冊も欠かさずに持ってほしいが、芸能人やとても有名な人でない限り、他者はその人に関心を抱かない。人生とはそういうものとわかっているので、別段さびしくない。今日は3日に国立国際美術館で見たボルタンスキー展について書くが、彼は有名人でしかも自分自身にとても関心がある。そのことがいささか鼻につくが、芸術家はみな自意識過剰だ。彼の作品で有名なものはホロコーストで死んだユダヤ人の女子の肖像写真を灯った電球とともに飾ったものだ。彼も名前からしてユダヤ人であろう。ユダヤ人がナチスによるホロコーストを芸術作品の題材にすれば、おそらくヨーロッパではとても注目されやすい。何の罪もない人々が大量に殺されたからには、人々はまずその現実に戦慄し、その作品化にも同じ思いで接しなければ自分が不謹慎だと感じる。日本で言えば丸木位里の「原爆の図」を想起させるが、ボルタンスキーは虐殺の様子を描かず、白黒の肖像写真を並べる。その顔はみな笑顔で、説明がなければホロコーストで死んだ子どもたちとはわからない。だが、白熱電球が写真1点に1個灯っていれば、それが魂の表徴であるとわかるし、左右対称に壁面に積み重ねられた、あるいは写真を大きく引き伸ばして1点ずつ間隔を空けて展示されれば、それらの子どもたちは無名で、みな同じように死んだことが充分に想像出来るし、またその展示空間は葬儀場のようで、いい雰囲気ではない。そしてホロコーストで死んだことを知れば、もっと息苦しくなるが、それは若くして殺されたという現実と相まってさらに忘れ難いものとなる。ボルタンスキーの名声はそれらのシリーズ作品のみで後世に伝わるであろうが、それはホロコーストを忘れてはならないという抗議のために制作されたものとは言えないだろう。となれば単なる悪趣味かと思われかねないが、彼は生とは何か、命とは何かを考え、その中で自分の意思に反して大量に殺されたことが、彼が生まれた1944年にまだ行なわれていたことに精神の痛みを感じるのだろう。場合によっては彼もホロコーストの犠牲になっていたかもしれないからで、生き残った者、また表現者として、作品化を義務と思って来たのではないか。そして、彼は自分も含めて人間の生と死を視野に作品を作る。

以前にも書いたが、筆者は30年ほど前、小学生の甥が通っていた学習塾の顔写真入りの名簿を見たことがある。見開きに30名ほどの12,3歳の男女の顔写真が並び、全部で200か300ほどの顔写真があった。当然のことながらどの顔も筆者のほうを向き、また写真はとても鮮明で各人の個性がよくわかる気がした。ページをぱらぱらとめくりながら、筆者は急速に嫌な気分になった。家内も同じことを言った。まず彼らがひとりずつ自己主張し、一斉に筆者に向かって来るような気がしたからだ。筆者が小中学校の頃の学級写真は顔がもっと小さく、またみんな知っている顔であるだけに、それらの写真を今見ても嫌な気分にはならない。甥のその名簿の顔写真は、全員経済的にほぼ同じようで、いい成績を取ることを第一に考えている雰囲気に満ち、顔はみな違うのに均質的な何かを強く感じた。その均質性が薄気味悪かったのだ。筆者が子どもの頃の学級は、公立であったので、貧乏人も金持ちもいて、また賢いのもアホなのもいた。それが普通と思って来た筆者は、甥のその学習塾の名簿写真は、誰もがそれなりに利口そうだが、それだけに面白味を感じなかった。ボルタンスキーが使うユダヤの少女の写真は戦前のものであるだけにピントが曖昧で、またどれも笑顔だが、先の甥の名簿写真のようにひとりのカメラマンがまとめて順に撮ったものでなく、角度や光の当たり具合もばらばらだ。その無作為に選んだものとわかる点が、ボルタンスキーの選択と収集という癖をまず感じさせ、そのことが作品化ということに大きく貢献している。つまり、甥の名簿写真ではボルタンスキーの作品のようにはならない。それは写真の目的が違うからと言えそうだが、それよりも写真の二次使用が作品になるという事実だ。とはいえ、それは勇気がいることだ。しかもホロコーストで死んだ少女の写真を、そのホロコーストを再確認させる作品に使うことは、無名の少女でなければならない。あるいは、ボルタンスキーのそうした作品の写真を、甥の名簿の写真から無作為に選んで解像度をかなり落として使えば、ボルタンスキーの作品と同じアウラが生じるかどうかだが、これを森村泰昌がやればボルタンスキーは黙っていないだろう。それほどに芸術の題材にホロコーストを使うのは慎重さが必要だ。ましてや実在した人物の写真を用いるとなれば、肖像権の問題よりも倫理観が問われ、ユダヤ人しか出来ない。そしてその現実の前で観客は黙って作品に接するしかないが、そこに一抹の割り切れなさを覚えるのは、物事の象徴の方法が西洋と東洋とでは違うことを感じるからだ。丸木が原爆の悲惨さを表現するのに、原爆の被害に遭った人の写真を使わず、モデルを使った写生を組み合わせた。それでは悲惨さは間接的にしか伝わらないかもしれないが、記録写真と絵画は違うという意識が丸木にはあった。
ボルタンスキーは画家ではない。また写真家でもなく、写真収集家だ。それに電球に関心が強く、またミニマル系のコンセプチュアル・アーティストだ。ところで、本展は入場の際に作品を説明した7つ折りで裏表印刷のリーフレットがもらえた。会場ではそれを見ずに、これを書きながら広げているが、図録代わりになるほど説明がていねいだ。会場は写真撮影が出来る区域とそうでないところとに分けられ、撮影が出来ないのは前述のホロコーストの少女写真を使った作品群であった。ボルタンスキーにとってそれらの展示場所は聖なる空間で、観客に気軽に撮影してほしくなかったのであろう。さて、ホロコーストで理不尽に死んだ人々に着目した後、広く死者に関心を寄せ、新聞の死亡欄の掲載された写真を数多く集め、それで棚や風呂屋の下駄箱のような1990年の「死んだスイス人の資料」や「174人の死んだスイス人」を作った。スイス人が選ばれたのは、「死ななければならない歴史的な理由を持たない国民」との理由だが、ホロコーストで死んだユダヤ人と対比するのに、永世中立国の人間でも死ぬことを示すことがよいと考えたことになる。つまり、死は誰にでも平等との考えだ。死の到来は遅いか早いかの差で、それをボルタンスキーも思っていて、自分の生と死を題材にいくつかの作品を作っている。たとえば2013年の「最後の時」と題する作品は、ボルタンスキーが生きて来た現時点までの秒数を発光ダイオードで表示し、彼が死んだ時点でその集積が止まるとのことだが、日数ならいいが、生まれた精確な時間はわからないはずで、秒数には意味がない。それに秒や分といった時間の刻みは発明されてまだ歴史は浅く、人間の存在を考えた時にさして意味はない。2008年の「自画像」は、彼が7歳から60歳までの真正面から撮影された顔写真を無秩序に37枚並べる。これらは5点ほどがまともな撮影で、他はモンタージュによる合成だが、そのアイデアはジョンとヨーコのLP『サムタイム・イン・ニューヨーク』のレーベル面におけるジョンとヨーコの顔の合成写真の借用だ。ボルタンスキーは「人生のあらゆる瞬間が混ざり合った一連の自画像を作り上げた」と説明するが、こじつけだ。本当は7歳から毎年同じ角度で撮影したかったのであろう。そのことは「C・Bの人生」という、彼の仕事場を10年間、3台の監視カメラで撮影し続けている映像作品からもわかる。全人生を撮影しようとの思いとしても、それをすべて見るには同じ年月を要する。誰にもそれが不可能なうえ、また3台のカメラで撮影し続けてもそれらの映像からはボルタンスキーの内面は全くわからない。生まれた時の写真と死んだ時の写真の2枚だけでも、その人の全人生が想像出来る。誰もが芸術として見せる必要を思わずに自分の写真をたくさん所持し、また葬儀の時には人生を代表する写真が使われる。

会場は暗闇が多く、お化け屋敷に似た楽しみがあった。それはホロコーストに因む作品があることからすれば不謹慎な思いだろうが、撮影が許された区域の作品は、どれも安価な材料を使ったインスタレーションで、安っぽさを暗がりでごまかしているところがあり、深淵な思想といったものを感じることは出来なかった。それは会場に合わせた現地調達した段ボールや衣服などを用いているからでもある。衣服は古着としても新しいデザインのもので、彼の他の作品に見られる錆や古びた手触り感といったざらつきがなかった。ウエスにしか使えないような古着を日本で集めることは困難であったのだろう。あるいはそういう臭いのしそうな衣類を大量に美術館内に運び入れることは禁止されたかもしれない。ざらつきというのは、最初のあった1969年の映像作品「咳をする男」に顕著だ。暗がりでその映像を見ながら筆者は傍らにいた係員の女性に質問した。「これは何ですか?」「はあ、こういう映像作品なのです。」苦しみながら咳をし続け、血を吐く男の姿を捉えた2分半の映像で、筆者は二度見ながら、男が拷問にでも遭っているのかと思った。血は赤い色をつけたチョコレートのようで、その点は作り物であることを安心させたが、その悪趣味ないし不気味さはボルタンスキーの原体験を反映したものか。「罠1970/71」というオブジェ作品は、「特に目的もなく行なった反復作業の寄せ集めで、68年から72年にかけて彼はとても孤独で、900個の角砂糖の彫刻と3000個の泥団子を作った」と説明にあって、そこにはミニマル・アートの手法がある。それは「死んだスイス人の資料」や「174人の死んだスイス人」、あるいはそのほかの作品にも言え、同じようなものを集めてひとつの作品とすることを好む傾向にある。2015年の「黄昏」は、床に乱雑に並べた数多くの白熱電球が、展覧会中、毎日2個ずつ消え、最終日に全部消えて部屋は真っ暗になるとのことで、「人生があらかじめ定められた死に向かってゆくことを示している」とある。この説明文を違うものに書き換えるとまたそのように見えて来るし、真っ暗な部屋から始まって毎日2個ずつ点ければ、また違う思想を表現出来る。電球は昔は蝋燭を使い、また蝋燭は人生の燃え尽きの比喩に持って来いの素材で、ボルタンスキーはそれを電球に変えただけだ。灯りがあれば影が出来るが、1985年の「影(天使)」は小さな切り紙を回転させてその影を壁面に拡大投影するもので、走馬灯としての切り紙の出来上がりはかなり安っぽく、もっと巧みで感動的な作品は日本にいくらでもある。1996年の「ヴェロニカ」はキリストの顔が写った布の伝説に基づく布作品で、ユダヤの少女の顔写真を聖なるものとして位置づける思いの根底にキリスト教があることを示唆しているが、ゴルゴダの丘でキリストは咳き込んで血を吐いたであろう。