頑固の反対は素直か。そう思って調べると、従順、温順とあった。ま、素直でもいいと思うが、素直で頑固な人もある。筆者はその部類だろうが、素直で頑固であれば天邪鬼ということになる。

そういう性質の人は本当は扱いはたやすい。以前に書いたことがあるが、筆者が友禅の師に就いて学んだ後、染色工房に勤務して半年ほど経った時にその主宰者となって、外回り役と事務員は別にして、数名の働き手を雇うことになった。その中の最年長者に近所に住む50代の女性がいた。彼女は筆者の天邪鬼ぶりを見通していて、他の20代の女性たちにこう言っていた。「大山さんに仕上がったものを見せに行く時は必ず『ここが少し気に入りませんが』と言ったほうがいいよ。すると大山さんは『そんなことないよ』と言ってOKくれるから。反対に『これでいいですね』と言うと必ずどこか駄目と言われるから。」 この話を聞いて筆者は全くそのとおりと大笑いし、自分がいかに天邪鬼かを思い知った。そういう性格は見透かされ、他者からうまく操られる。絶対に他者の考えに動かされないと自信を口にする人ほど、実際はそうではない。これは絶対に詐欺には遭わないと思っているほど騙されやすいことと同じだ。頑固は頑迷で、正常な判断が出来ないが、頑固な人にそれを言うと、「素直であれば簡単に人に騙される」と主張するだろう。そこで素直で頑固なのがいいと、小さな子どもにそういう場合がよくあって、筆者の息子も2,3歳の頃にそうであった。真夏に出かける時に黄色い長靴を履くと主張し続け、いくら諭しても言うことを聞かず、結局それを履かせてバスや電車に乗って出かけたことがある。つまり、素直で頑固というのは子どもや子どもっぽい大人にありがちで、筆者はその類だろう。また個性を表出する作家は素直かつ頑固であるべきで、作品にその双方の出方がどのように見られるかが、当の作家の持ち味、評価となる。2日に西宮の大谷記念美術館で見た呉春はその意味でとても興味深い画家だ。呉春についてはこれまで何度か書いた。蕪村と応挙に学んで四条派の祖になったが、「円山・四条派」と並んで書かれることが多く、応挙より格下に見られる。これは生前からそのとおりで、偉大な師を乗り越えることが難しいことを示している。では蕪村と応挙の才能を越えなかったのかとなれば、呉春らしさは確実にあり、また四条派の画家たちは呉春とは違う個性を持っている。それは素直に師の画風に学びながら自分の表現したい思いを頑固に守ったからだ。素直だけであれば個性は育ちにくく、頑固だけであれば一匹狼の野生となってほとんど誰からも顧みられない。これは直接師に就いて学ぶことだけを意味せず、作品を通しての私淑の場合でも言えることで、私淑する師がいないと言う人は、勉強不足から作品は底の浅いものになる。
江戸時代の画家は今と同じように個性は必要であった。それにはまず師に就いて技術を学び、過去の名画家の画風を知ることとされた。現在でもそれは言えるが、本やネットの情報、また実物の作品を間近で見られるので、誰かに直接教わらずに画家になることは可能で、それで生計を立てる人もいる。またその人の顔や姿が目立てば、芸能人のように人気が出ることもあり、実際芸能人であり画家を自称する人は昔からいる。特に女性は若さや美貌を売りにして、たいした技術を持たずとも絵が売れる。そういう人は写真がなかった時代の顔のわからない有名画家も人の目を引く容貌をしていたと言うかもしれないが、芸能人が人の目を引くのはその人間性が素晴らしいためとは言うより、俗受けするからだ。世俗さは芸術に欠かせないものではない。それどころか、芸術を愛好する者は芸術に卑俗さを嫌い、聖なるものを求める。それは普段から聖像を崇めるとか、信仰心を持っているということではない。絵を飾るのはそこに特別の空間がほしいからで、音楽を聴くことは非日常性を味わいたいためだ。ところが、日本では部屋の中に仏壇すらない家が普通となって来ている。一方、音楽はTVを初め、街中に溢れ返っていて、聖なるものが見えにくくなっている。それで人々はたまに美術館や音楽ホールに行くが、そういう施設がなかった江戸時代、美術や音楽に聖なるものが求められ、どのような巨匠がいたかとなると、音楽は美術より地位が低く、広く名前を知られる人はいなかった。洋の東西を問わず、絵画の歴史は音楽よりもはるかに長く、また日本には音楽を再現するための西洋のような楽譜がなく、録音技術がなかったからでもあろう。それに、大観衆に聴かせるために必要な電気設備がなかった。日本では絵画は禅僧や儒学者や茶人といった知識人が重視し、巨匠を順序づけることを行ない、当時の評価は現在もおおむね引き継がれるが、水墨画については技術の直接の伝達はほとんど絶えた。それゆえ見所がわからなくなったかとなれば、そう単純な問題ではない。絶えた技術をまた高度に復活させることは困難だが、どういう技法で描かれたかわかる作品があれば、いずれその技法を復活させる人が出て来る可能性がある。また、技術的なことがわからなくても心を打つのが芸術であり、鑑賞に際して技術的知識は必要ないと言えるが、知っておけば別の見方が出来るし、当の画家がなぜ当時人気があったかの理由を理解する一助にもなる。それに、日本の芸はまず技術重視で、それは師を模倣することで身につくと考えられた。呉春はそういう意味での代表的画家で、その後京都の日本画は呉春から影響を受けたが、それは戦前までの話だ。戦後の呉春への関心は低下したままで、積極的な再評価はなされておらず、そのため、本展はきわめて珍しい呉春の作品をまとめて見る機会だが、若冲のような人気の爆発は期待されない。

若冲と蕪村は同じ年の生まれで、呉春は若冲より35歳若く、還暦で死んでいる。呉春は最初大西酔月に学んで20歳頃に蕪村に就く。呉春の蕪村時代の作は蕪村そっくりの筆法ながら、蕪村とは違う個性があり、その味がわかると呉春のファンになれる。司馬遼太郎は小説で呉春を弟子に抱えた頃の蕪村の絵を絶賛しているが、呉春は蕪村の味わいを咀嚼しながら、自分の様式を模索し、すでに完成させていた。呉春は気に入った構図の絵は量産したようで、本展にもそういう天明期の作品が出品されたが、同じ構図の絵をたくさん描くことは自分なりの様式を獲得したとの自負があったからだ。またその様式は蕪村からの感化で、人物も含めるが、その人物は蕪村とは少し違って、実在の農夫や漁夫を描いたと思わせるに足る真実味のある表情をしている。もっとも、そういう人物像は稀で、普通名詞としての老人が多い。また彼らは5頭身ほどの背の低さで、呉春が小柄であったことを思わせる。実在の人物としては芭蕉や蕪村を描くが、前者は想像図で、後者は哀愁を帯びた優しい表情が蕪村ファンの心をくすぐるが、実際蕪村はそのように優しい表情をしていたのだろう。蕪村に学んだことは俳諧もよくしたことを意味するが、芭蕉、蕪村のように呉春は俳諧の道を切り開いたとは言えない。ただし、その精神はよく理解し、また呉春は応挙と違って書を得意とした。蕪村亡き後、応挙に就いてからの、蕪村らしさを払拭した簡潔な絵は、俳画を洗練の極地に到達させたと言ってよい。そうした40代半ばの作品は小品が多いことと、またあまりに簡素でまたどこか硬い印象があるが、頂点に達した付け立ての技術によるそうした水墨画は当時の京都を代表するもので、京都生まれの呉春が京都を代表する絵画を開拓したと言ってよい。呉春の絵は今なお京都の家に飾るにはふさわしいほどの洗練さがあり、きわめて短時間にきわめて技術の高い、また良質の絵を描くことの出来たその才能は、工芸の王国である京都以外では生まれ得なかった。付け立てとは筆の穂全体に淡い墨を含ませ、その先に濃い墨を少し拾い、皿の上でその穂先全体の濃淡を馴染ませたうえで筆の穂先全体で一筆で描くことで、椿の葉1枚ならば二筆でその光沢のある様子と葉の形が表現出来る。これは応挙が始めたが、呉春は技術的にもっと進めた。また付け立ては練習によってある程度誰でも習得出来るので、戦前の小学校の図画工作の授業でも手本どおりに描くことを教えられた。それは技術とまた絵の様式性を覚えれば、誰でも表向きは達者な絵が描けることを意味したが、型に嵌った絵しか描けないというので戦後はすっかり教えられなくなった。その技術は大人になってからでも習得出来るが、幼少の頃から学んだ人にはとてもかなわない。つまり、呉春の付け立てによる絵を模倣してもそれを凌駕することはまず不可能だ。
呉春の人物画で蕪村らしくない作は呉春の特徴がよく出ているが、そのような作例として今回は応挙が亡くなって3年後に当たる47歳の六曲一双屏風「大江山鬼賊退治図」がとても面白かった。蕪村時代の呉春は人物が密集する絵をきわめて躍動的に描き、どんな画題でも得意としたことがわかるが、「大江山鬼賊退治図」は遠近の利いた構成に多くの人物を配し、また呉春らしい透明感のあるほのぼのとした平和な雰囲気に満ちている。本展の呉春画は京都国立博物館と逸翁美術館から大作が借りられたが、筆者が最も感心したのは天明7年、応挙のもとを訪れた36歳に描かれた六曲一双屏風「柳鷺群禽図」で、重文指定される。水墨にわずかに淡彩を使い、靄で霞んだ空気は遠目にとても心地よく、呉春が早朝に写生を重ねたことを確実視させる。また柳と鷺な小禽の配置や描き方は、近寄って鑑賞すると細部がとても楽しい。蕪村の画風が濃厚でも、蕪村以上に写生を感じさせ、いい意味での、つまり理想的な写真に見える。それは構図が計算され尽くした風景や静物の写真と言い変えてもいいが、そこには様式性が顕著であるとも言える。呉春は柳や鷺など、各画題を写生、それらを組み合わせて日本のどこにでもあるような花鳥画を作っている。そのため、部分を交換すればいくらでも似た絵が出来るし、それらの部分を小さく描けば半切に収められる。また、柳の古木の枝葉の奔放な集まり具合は、一見粗雑に筆が重ねられて、それだけ取り出せば落書きか抽象画に見えるほどだが、実物の枝葉そのもので、無駄な線は一本もないことに気づく。迷いが一切感じられず、かなりの速筆でそのようにきわめて的確に描く才能に、応挙はもはや教えることは何もなく、驚嘆したのは無理もなかった。ただし、蕪村や応挙と違って呉春には大作は少ない。そのことが呉春の一般的評価の高まりが期待しにくい理由と思える。たとえば本展に出品された屏風を解体した4面だろうか、紙本墨画の「芋畑図」は濃淡と大小で芋の葉を配置し、遠近感を表わすが、その葉1枚を半切の掛軸に描いたはずで、呉春は余白の多い小画面の作例が目立つ。それはそれほどに小品しかあまり求められなかったことと、手抜きと思われかねないほどの簡単な絵を描く気力しか残っていなかったためとも考えられる。そのことは友人であった上田秋成の呉春評からも想像出来る。呉春は食道楽であったらしく、秋成に言わせれば早死には腎虚のためだそうだが、その手抜きに見える簡単な絵を雅さ、洗練さと見ることも出来るし、秋成もそのように言っている。蕪村の六曲一双屏風のような大作はそれを求める人があり、また蕪村とそういう客をつなぐ弟子筋の人が多くいたし、応挙には円満院門跡という庇護者があったが、呉春はそういう境遇に恵まれなかったか、あるいは応挙以降は有名画家に六曲一双屏風を依頼する時代ではなくなって行ったためか。

本展は呉春以降の四条派の作品を展示した。第2章「円山応挙と弟子たち」では源琦、山口素絢、吉村孝敬、第3章「呉春の弟子たち」は岡本豊彦、松村景文、柴田義董、紀広成、八木雲渓、塩川文麟、長谷川玉峰、第4章「大坂の四条派」は上田耕夫、長山孔寅、上田公長、西山芳園で、筆者はこのうち3,4名は画風を知らない。これも上田秋成が言ったことだが、呉春の弟子はみなどんぐりの背比べで、大きな才能は出なかった。だが、上記の画家はみなそれなりに注目され、作品は流通している。松村景文は呉春の弟で、呉春とそっくりな絵もあるが、付け立てによる達者な花鳥画を得意とし、また筆者の思うところでは呉春よる著色画が多い。ふたりの墓は同じ大きさで蕪村の墓のある金福寺に建てられたが、そう言えば景文は蕪村のことをどう思っていたのだろう。呉春画のまとまった紹介がめったにない状態では景文に日が当たらない。これは逸翁美術館で昭和57年に開催された呉春展の図録に紹介されるが、景文も門人による誓文が本展で紹介され、筆者は初めて見た。それは門人5人が景文の絵の贋作を作らないというもので、幕末から明治にかけて付け立ての技術を師と同じほどに習得する弟子が多く、質の高い贋作が作られ得たことを意味する。形骸化、マンネリズムだが、技術の保持に頑迷さは生じ得る。呉春の晩年の小品にすでにその気風が芽生えていて、その省略の利いた絵が世間で歓迎されると、景文やその弟子もそれを真似る。売れなければ生活出来ないからで、また弟子の作より師の作が高値であるから、弟子が師とそっくり同じ絵を描いて師の印章を捺すことが行なわれたのだろう。そしてそういう絵が呉春や景文の作に混じり、そのことがふたりの評価を落としている原因でもあろう。そこで景文とは全然違った筆法や画風の新しい才能が登場して来るが、本展の第4章で取り上げられた画家は四条派の最後の光芒で、また彼らは次の代の画家に四条派のよき部分を伝えた。一方、前述したように明治の小学校で付け立ては子どもが習得すべき日本画の技術として教えられ、それは戦前までそれなりに続いた。そのため、戦前生まれの人は墨絵を肌で理解し、筆を持って文字と同じほどに型どおりの絵を描くことが出来た。戦後の自由を優先する教育の中で付け立ては古臭いものとみなされ、また自由な発想を妨げるものとして退けられたが、世界のどこにもない合理的な絵画の伝統技法を捨て去った代わりに、新たな伝統が身についたかとなれば、哲学や思想が伴なわず、まだまだ西洋に劣るに決まっている。戦争に負けて一夜にして思想を変えた日本は、相変わらず混沌とした中で潮流としての方向を見出せず、各自がばらばらに学んで単発的な実験を繰り返している。今日の鯉のぼりの写真は、阪急夙川駅から阪神香櫨園駅まで歩く間に夙川で見かけた。