臓器を移植しても本人の人間性は変わらないだろう。その理屈で言えば顔を何度整形手術しても人間性は変わらないことになるが、本当にそうだろうか。また人間性は変わってはいけないものか。

よく唯一無二の人間性と言う。同じ遺伝子の双子でも人間性は違うから、同じ人間性はないことになるが、一方で世間の常識というものがあって、大方の人間は同じような考えと行動をする。これは唯一無二であってもその差は無視出来るほど小さいと見るほうがよいことを意味する。つまり、唯一無二にはさほど価値があるとは言えず、唯一無二をありがたがるのであれば、めったにない唯一無二性だ。またそういう存在に対して、唯一無二を誉め言葉として使う。たとえば個性は誰のものでも唯一無二で、その個性が作り出す作品も唯一無二だが、そこに表現技術が伴なわなければ芸術的価値はない。その表現技術は圧倒的な高さがあればあるほどいい。この理屈で言えば、芸術表現は技術の高さ次第ということになるが、筆者は技術重視の立場で、自分では絶対に模倣出来ないほどの高度な技術には文句なしに賛辞を贈る。だが、世間では芸術における技術力は比較的どうでもよく、訴える力が最も重要だと言う。これが曲者だ。どのような下手な絵でもそれなりに訴える力があるからだ。筆者はそういう作品は認めたくない。それは本当の意味での唯一無二の才能ではない。パウル・クレーの絵が子どもが描いたようであっても、子どもの絵とは違う。そこをごっちゃにして子どもの絵をクレーの絵よりもいいと言うような人は唯一無二の頭を持った人ではない。さて、4日は奈良県立美術館でヨルク・シュマイサー展を見た。没後7年目の初の本格的な回顧展で、版画作品を中心に180点が展示中だ。
シュマイサーの作品についてはブログに書いたことがある。筆者は生前のシュマイサーに何度か会ったことがあり、また作品を所有していることもあって、本展を絶対に見るべきものとして心待ちにした。予想どおり、館内は筆者を含めて数人の客で、閑散としていたが、銅版画は元来愛好者は少ない。それをわかったうえでの関西では同館のみの企画展だ。これは東大寺の仕事をシュマイサーがかつてしたからでもある。また奈良にはシュマイサーの版画を摺る車木工房がある。そこに勤務する気さくな何人かとシュマイサーや客を含めて京都の平安画廊で個展があった時のパーティに筆者は参加したことがあるが、思えばその時に談笑した画廊主の中島さんや同画廊に勤務していた若い友成さん、それにシュマイサーもいなくなった。人が死んで行くのはあたりまえだが、シュマイサーの新作がもう見られないのはさびしい。とはいえ、カタログ・レゾネはまだ制作されておらず、筆者が見ていない作品はたくさんある。それは筆者が所有するが本展に並ばなかった作品がままあることからもわかる。

シュマイサーの作品は筆者にとって唯一無二の言葉がふさわしい。その圧倒的な技術力は細かい手作業を得意とする日本でも誰も比肩出来ないだろう。細かいだけではなく、精確でしかもどの線にも熱がこもっている。細かさを越えた微細さで、それは実物の版画に目を10センチまで近づけて見なければわからず、図録の小さな図版は全くの冗談と言ってよい。こう書くと、4Kや8KのTVのように細部が見え過ぎると女優は困るのであって、また女優はやや遠目にきれいであればよく、ごく間近で鑑賞するものではないと言う人がいるだろう。たとえばフェルメールの絵は間近ではかなりぼけて見え、ある程度離れたところから見てこそ味わいがある。シュマイサーの作品はそのほとんどは顕微鏡レベルの微細さと言ってよく、間近で見て驚嘆し、またかなり離れて見ると改めて驚く。微細な表現に価値があれば、ごく小さなサイズの作品でいいことになるが、彼の作品はかなり大きなものが多く、1点仕上げるのにどれほどの労力をかけたのかと気が遠くなる。シュマイサーが引いた線のすべてを集めると、地球を何周かするだろう。その圧倒的な仕事量の前に、芸術家ぶる凡庸な作家はすべて恥をかく。人生と引き替えに作品を遺したと言われる作家は少ないが、シュマイサーは別格としてのそういう芸術家だ。その真面目過ぎる制作態度ゆえに、芸術と呼ぶより職人仕事と主張したい人があるかもしれない。技術を重視しないそういう人は小さな芸術しか知らない。誰にも真似の出来ない空前の技術を手にすれば、誰にも真似の出来ない作品を生むことが出来る。高度な技術はより表現の自由の獲得を可能にする。その確かな線描の技術のために、シュマイサーの作品には近寄り難さがあり、それは人間味に乏しいと言うのではないが、生真面目な人柄が露わで、芸術に人間味を求める人には敬遠されやすい。その人間味とは色気だ。シュマイサーの師ヴンダーリヒは多くの女性像を作品にし、またそれらは実物のモデルの写真も手伝って、とてもエロティックだが、シュマイサーの裸婦にはそういう色気が乏しい。1点だけ炎の中の日本人らしき若い裸婦像を描いたものがあるが、その際立っている一例で充分とも言える。色気を感じさせないのは、彼が女にあまり関心がなかったためかどうかは知らないが、女をひとつの変化して行くその他の自然と同一視していたためであることは間違いない。それは禅僧の態度に似る。最初から女とはどういうものかわかっていれば、女に悩まされることはない。たいていの男は晩年になってその境地に達するが、若い時に悟ると今度は美青年への関心が大きくなるかと言えば、シュマイサーには同性愛を連想させる男性を描いた作品がない。シュマイサーにおけるこの希薄なエロティシズムは、物事に動じない冷静な人柄を思わせ、そこに同意出来ればシュマイサーのファンになる。

シュマイサーの作品を1980年代半ばから彼の個展によって追って来たので、本展の出品作の大半は知っているが、最晩年の作品は知らない。特に最後に展示された「イルパラ海岸のかけら」の大作シリーズは初めて見たが、人生に思い残すことはもうなかったと想像させるほどの素晴らしさだ。筆者が最後にシュマイサーに会ったのは、2008年3月、京都市芸大退官記念の展示があったギャラリー宮脇だと思うが、本展の図録巻末の年譜によれば2003年に「氷原をゆく」と題して南極シリーズの展示を各地で開いている。それを京都烏丸御池の新風館に見に行った。たぶん晩秋の夜で、会場に彼はひとりだけがいた。薄いパンフレットを買い、サインもしてもらった。2部買って1部は友人に送り、もう1部を手元に残したはずが見当たらない。それはともかく、シュマイサーが京都からオーストラリアに拠点を移して以降の作品はダイナミックさに拍車がかかり、その勢いがどこまで行くのかと思っていたところ、南極に取材に行ったことを知った時はとても驚いた。彼なら月や火星に行けるものなら真っ先に手を挙げたであろう。それは未知の形を求めてのことで、その意味で南極では大きな衝撃を受けた。そこには人間の文化がない。シュマイサーは京都や世界の有名都市で街を初め人間による文化の遺産を見聞し、それを画題にした。その土地の伝統的な芸術には土地の記憶が詰まっているとの思いからであろう。一方で文化の垢のない自然の面白い形態に早くから着目した。植物の種子や貝殻、魚介の骨格、樹木、そして裸婦といったものだ。それらを微細かつ整然と並べ、画面の余白にドイツ語で日記を細かく記すなど、ほとんどレオナルド・ダ・ヴィンチとデューラーを足して割った画風を思わせる作品が目立ったが、オーストラリアや南極の自然を描いた作品は、歯科医のドリルとアクリル板を用いたドライポイントの技法によるせいもあって、細かさから解き放たれた猛烈な勢いが露わになった。彼はエッチングにこだわらず、初期に木版を試み、またビュランでも制作し、手彩色を加えることもあった。本展では銅版画の技術見本作品もあって、そこにメゾティントも含まれていたから、銅版画の全技法を駆使出来る態勢にあった。また銅版画は50や100部を同じ摺りとして仕上げ、原版は残すが、彼はたとえば3つの版による作品を一定枚数を摺った後、その3つの版を描き変え、つまり手を加え、さらに一定枚数摺り、また版に手を入れるという作業を繰り返した。木版と違って銅板ではそのように線を消して新たに加えることが出来るのだが、その描き変えは最晩年のシリーズ作品「イルパラ海岸のかけら」まで変わらない。そしてこの一定の絵の部分を共有する臓器移植的な技法は、本展のほとんど最初に展示された1967、8年の5点組の「彼女は老いてゆく」にすでに見られる。

この5点組はどれも画面右下に女性の小さな横顔がある。最初は若く、5点目は老婆で、女性の容貌の変化を作品としたことに女性を冷徹に眺める態度がある。それは日本の六道絵の影響もあるかもしれない。若い女性が青春を謳歌して怖いもの知らずであっても、それはほんのわずかな月日のことだ。同じことは花を見ればわかる。若いと言われる女性でも確実に年齢相応に老けて行き、そのことを思えば若さに価値を置くことは虚しい。老いた男が若い女を抱く絵をオットー・ディックスは何点か描いたが、勝ち誇ったような裸の娘を抱く老人は目を閉じて悲しい表情をしている。だが、娘もすぐに皺だらけになるのであって、その変化を確実なものとして悟ると、表現者は何をすべきか。シュマイサーはまだ見ない土地へ赴くことを欲し、南極に至った。そこには人間の予想を超えた世界で、色気と呼べるものがない。アンドレ・マルローは人類が生んだ美術をすべて見届け、それを体系化しようとしたが、アフリカや南太平洋の美術に着目しても、南極は除外した。そこを題材に美術作品を作った者はいないからだ。そのことをシュマイサーは知っていたはずだが、自分が最初のその創造者であろうという意気込みは、青を基調とした即興的な素描によってよく伝わる。氷山を前に、どのように目の焦点を合わせ、画面にその実物の大きさをどう表現出来るかと戸惑い、ともかく当たって砕けろとの思いで描いた作品は、写生にほかならないのに抽象画でもある。それは筆者にはほとんどロジェ・カイヨワの最晩年の思いと同じと見える。カイヨワの著作『石が書く』は、自然の石が人間のように、あるいは人間以上に絵画を創っていることを知った驚きを豊富な図版で紹介する。カイヨワは南極を見なかったが、見ればそこに石では及ばない世界が広がっていることを知って新たな幻想論を書いたかもしれない。シュマイサーの南極を描いた青と白の抽象画に見える作品は、オーストラリアの自然を題材にした赤を基調にした作品で試みられていたと言ってよいが、想像と現実はかなり違ったのであろう。寒さに震えながら彼が茫洋とした氷の山を一心不乱に描く時、それは筆者には中国の変わった形の山を前にする文人の姿とだぶる。先にシュマイサーを禅僧にたとえた。筆者がシュマイサーの作品を好むのはその寡黙で禁欲的なところだ。顔を売り、名前を売ろうとする芸能人とは大違いで、途方もない線描の密度とごく限られた色の明暗のみで見せる彼の作品は、はがき大の小品であってもその人間性をあますところなく露わにしている。そういういわば渋い作品はいつの世でも理解者はわずかだが、そのわずかが真の理解者となって作品を後世に語り継ぐ。筆者はそのひとりでありたいし、その思いはシュマイサーの作品を知った時から変わらない。それは肉体は変化しても精神はそうでないことを意味するだろう。

会場では撮影が許されていて、作品を数枚撮影したが、それらを全部載せるにはまだ数段落書かねばならない。今日の最初の写真は以前にも紹介したことがあるが、筆者が最初に買ったシュマイサーの作品で、1987年の「断片、迷路と曼荼羅」だ。摺られた絵の部分は縦横60センチだ。以前にも書いたが、平安画廊で平成元年(1989)に14万円で買った。左下に70/80の鉛筆書きがあり、80部摺られた。本展に出品中のものはそこに「COLOR PROOF」と書かれ、同じものをDJの若宮テイ子さんが買った。彼女は筆者が買ったものを自分も所有したいと言ったのだが、80部は全部売り切れで、中島さんはシュマイサーに頼んで「COLOR PROOF」を用意してくれた。若宮さんの新しい家に訪れると、それが目立つ場所に掛けられていた。彼女のものは黄色が少し青味がかっていたことを鮮明に覚えている。その後彼女は木版画を学び、平安画廊に出入りするようになった。次にこれは1998年10月19日の80点ほど紹介する価格表だが、本展の最初に展示された縦95、横66.5センチの大きな「奈良・東大寺」は最高価格で35万円となっている。価格表で最も安いのは3万円で、これならサイズが小さく部屋に気軽に飾ることが出来る。筆者は当時妹に郷土玩具シリーズの1点である伏見人形の「飾り馬」を買わせた。はがき大のなかなか珍しい小品で、今にして思えばその後の筆者の伏見人形愛好を予言していた。狭いわが家にはシュマイサーの版画を全部飾れないが、3階の仕事場に通じる階段の一番てっぺんの壁に「アリアドネ」という題名のギリシアに題材を採った作品を置いている。今日の最後の写真がそれだ。いつ平安画廊で買ったのか覚えていないが、大阪にいる頃からの妹の親友にも買わせた。筆者がその作品を大いに気に入っているので、彼女はその喜びを自分も持ちたいたいと思ったのだ。とても美人な彼女は10代の頃から筆者をお兄さんと呼び、また筆者が描いた小さな油絵を京都の豪邸の応接間に飾っていると言っていたが、50代半ばで病死した。彼女の家には今もそれがあるだろうか。当時の筆者は周囲にシュマイサーの作品の魅力を吹聴し、お金に余裕のある人には買わせたかった。彼の作品はたまにネット・オークションに出るし、前述した日本の若い裸婦の作品は2,3年前にebayに出た。額入りで7万円ほどだったと思うが、迷いに迷って買わなかった。ぜひともほしい作品は家内と訪れたことのあるイタリアのシエナのカンポ広場を描いた作だ。これは本展ではニューヨークの摩天楼の作と隣り合っていた。1983年の作品で、平安画廊では当時30万円はしていた。「奈良・東大寺」より若干大きいので妥当な価格だ。そうそうシュマイサーの奥様は京都市芸大出の染色家で、昔筆者はメールをしたことがある。