在阪が4年目に当たるのか、ニエリエビタさんの話し言葉に大阪弁が混じる。そのことを昨夜筆者は彼女に指摘しながら、音楽をやる人は耳がいいことを思った。それは天性のものだろう。

彼女のようにギターを弾きながら歌う女性シンガーソングライターは現代の弁財天だ。家内の母は霊感に優れ、若い頃によく人が占ってほしいと訪れたというが、家内を出産する直前、弁財天の夢を見たことが語り草になっている。これまでその話を何度も聞かされながら、その夢がその後の家内の人生において何の予兆であったのかを筆者はたびたび考える。家内は兄弟姉妹の中では最も音感がよく、子どもの頃にピアノとヴァイオリンを多少学び、高校の時は管弦楽クラブに在籍した。父の反対で音大に進めなかったが、入社して筆者と交際するきっかけとなったのは、会社に出来たばかりの軽音楽クラブであった。そう思うことで義母が見た弁財天の夢をいいように捉えられるし、義母への追慕にもなる。今後も弁財天に関係する何らの吉事があれば、なお義母の夢は正しかったと思えるが、筆者はこの半年はライヴハウスに行くようになっていて、新たな音楽とは出会いがある。さて、昨夜は大阪の谷町9丁目の地下のライヴハウスOne Dropにニエリさんと弦花さんの演奏を見た。ニエリさんはこの日の演奏を2か月前にツイッターで予告した。弦花さんが招いたのだが、ふたりの出会いは今年1月23日の梅田にあるHARD RAINであるはずだ。その夜は5人が演奏し、弦花さんは最初、ニエリさんは4番目に演奏した。筆者は5人の演奏の感想をブログに書き、弦花さんからはツイッターのメールにそのことのお礼の言葉をいただいた。彼女は筆者がニエリさんの演奏について書いた文章も読んだはずで、そのことでなおさらニエリさんに関心を抱いたと自惚れるつもりはないが、筆者の文章がいささかの触媒となったと思うことは許されるだろう。ともかく、今回は客がふたりの個性の差を楽しむだけではなく、ふたりが切磋琢磨することにもなることを実感させる。筆者は何度かニエリさんの演奏の感想を書いている。今回は新曲が演奏されなければ書くべきことがあるかと心配したが、書き始めると勢いに乗って言葉が出て来る。ニエリさんは長年人前で演奏して来ているにもかかわらず、ライヴではいつも緊張するようで、弦花さんが曲の合間によくしゃべるだけにニエリさんの言葉の少なさはさらに目立った。筆者も上がり症で、今もそうだが、特に30代半ばまでは人前ではとても緊張したので、彼女のそういう様子はよく理解出来る。極度の緊張は自意識過剰のせいとされるが、小中学校の学芸会では、観客をカボチャと思えば緊張しないと先生から言われ、大人になってからは、自分が思っているほど他者は自分のことに関心がないとよく耳にし、ようやくそのことに納得が行くようになった。
昨夜のニエリさんはもう少しリラックスしてもよいと思ったが、初めての会場でしかも弦花さんのファンがいる前ということもあって、緊張は無理もなかったであろう。それに、弦花さんも普段とは少し違ったようで、演奏ミスがあった。演奏の後、正確な言葉は覚えていないが、彼女は馴染みの客のSさんに、自分と筆者は似ているというようなことを言った。これはたぶん彼女も筆者も創作者であることを思ってのことだ。作品の創造は心の何かを埋めるためと言ってよい。その意味において大げさに言えば筆者と彼女は同士だ。ところで、人前で緊張することを払拭して自信を深めるには、結局は自分自身の力に頼るしかないが、それには周囲の人とのかかわりという環境が左右し、理解者は欠かせない。それに、年齢による落ち着きが誰にでもあって、筆者はそうであった。また、いわゆる恥ずかしがり屋を好ましいと思う人は多く、女性ならそれは特に美徳とされる。自意識過剰についてもう少し書くと、それは他者の目に自分がどう映っているかが気になることだ。もちろんそれは大事で、それのない人を傍若無人と呼ぶが、気にし過ぎるとその悪循環がある。たとえば筆者はよく人前で顔を真っ赤にしてそのことを意識し過ぎるあまり、さらに赤くなることをよく経験した。それを改めなければと本人は強く思っていて、そのために人前に出る機会があればおののきながらもそれに挑戦しようとする。ニエリさんもおそらくそうだろう。彼女にとって自己表現の欲求は生きるうえで欠かせず、そのことは彼女の作品に如実に表われている。それは弦花の作品のように単刀直入の世界ではなく、筆者は何度聴いてもよく覚えられないが、それでも微かに立ち上る気配、生身をヒリヒリと感じさせるその真実味は、彼女以外には表現出来ないもので、筆者は同類の音楽を聴いたことがない。その個性が何に由来するのかがとても不思議で、彼女のライヴを何度か聴いて来たが、ドイツ表現主義を持ち出すと誤解を与えないとしても本質はそれに近い芸術だ。ところで、聴き手がシンガーソングライターの曲に求めるものが、他にない個性の真実味として、それの聴き手への反応はまちまちだ。またそうであるから芸術の多様性があるが、ある作家の作品の真実味はその人の生い立ちや人格に由来していると考える立場は根強い。そして、作家の詳細な年譜がいずれ作成されることがあるが、現在活動中の、生活事情を伏せる作家の場合は、資料不足から作品を論じるにも皮相的なものに留まりやすい。またそれは誤解を生みやすく、一方では他者から文章によって評価されずに作品はただ消耗されて行くことにもなる。そう思うため、なるべく作家や作品の本質を露わにしたいが、たとえばニエリさんのライヴの感想を何度か書く過程で、以前より思いを深めたいと思いつつ、本質の手がかりを想像で補うとフィクションになりかねない。
今回はふたりに1時間ほどが与えられた。これは通常のライヴの倍ほどだ。最初に演奏したニエリさんが演奏したのは7曲だ。「虹のかけら」「扉を開けたのは誰だい」「GIFT」「RING BELL」「風」「笑顔のおまじない」「おにぎりの歌」の順で、50分ほどの演奏で7曲であるから、彼女の曲は弦花さんのそれよりもかなり長めだ。これは歌が始まる前の伴奏が比較的長いからでもあるが、その伴奏の背後に彼女はアンサンブルを聴いていて、その点がギターと歌だけで完結する弦花さんとは大きく違う。またその差があるので弦花さんはニエリさんに関心を抱いているのだろう。昨夜筆者は弦花さんにニエリさんのどこが魅力的かと訊ねたところ、彼女はニエリさんを両手で指しながら、その人物像全体と言った。それについて筆者は返事しなかった。ニエリさんに魅せられる人の意見としてきわめて的確であると思ったからだ。またそのように見られていることでニエリさんは自信を深めると思うが、それにはファンの数を増やすことが手っ取り早く、それには新曲を書いてライヴの回数を増やすか、アルバムをさらに出すしかない。「GIFT」は昨年末頃に一度聴いたが、一昨日彼女はYOUTUBEに去年の暮の東京での演奏を公開した。彼女らしい変わった曲で、またギターの前奏はどこかブルースの変形っぽい。同曲以外はよくライヴで演奏されるが、「明かりのそばで」が演奏されなかったのは、筆者には物足りなかった。今回の演奏は2月下旬の音凪以来で、ツイッターで彼女は「久しぶり」と書いているが、わずか2か月少々とも言える。昨夜も話題に上ったが、大阪人の典型を超えた筆者のようなせっかちと彼女とでは水と油と言ってよく、彼女は筆者の言葉の裏の思いを理解するのに時間を要するだろうし、筆者も彼女の内面を知る術がほとんどない。それはともかく、今後も彼女の創作をゆっくりと見守りたいが、昨夜の彼女はいずれファンの集いを開きたいと言った。おそらく初めてのことで、ファンが彼女と話す機会を得られれば、彼女の人格がストレートにわかり、筆者が書く必要はない。こうした文章は作者が物故している場合は別として、書き手も読み手も隔靴掻痒の側面が大きく、彼女の音楽を知らない人に先入観を植えつけて、聴く機会を遠ざけかねない。とはいえ、現時点では彼女の音楽の存在を知る手がかりになる割合のほうが大きいと思うし、またそうでなければ書こうとは思わない。それが自惚れで、また迷惑だと言われると返す言葉に困るが、作者が作品や言葉を公にすればあらゆることが詮索される。それは作品に魅力があるからで、どうでもいい作品は誰も気に留めない。自意識が強過ぎると悪評に落ち込むが、それも気にしない境地に行くと、自分に対する揺るぎない自信が得られる。そういう話を彼女に直接したいが、その機会がなかなか得られない。