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●『Oh!マツリ★ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー』
種合格と乙種合格とでは認定された若者の比率にもよるが、体が頑健な前者ほど戦死した割合が大きいだろう。戦争はどんな卑劣なことでも行なわれ、戦前の日本が覚醒剤などの麻薬を積極的に製造し、それらを兵士に使わせて戦意を高揚させ、また台湾では多くの人たちを麻薬中毒にさせる政策を採っていた。



●『Oh!マツリ★ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー』_d0053294_23014189.jpg学校では絶対に教えられないそのような国家政策の暗黒の歴史を知ると、国のやることは何でも善と思っている人は少しはショックを受けるだろう。同じ人間であれば許されないことだと子どもでもわかっていることが、戦時下では相手国の人間は全部死んでもいいと教えられる。アメリカの原爆がそれだが、その被害ばかり唱えれば、日本も残酷なことを全くしなかったとは言えないと指摘される。中学生の社会の先生が、戦争は殺し合いであるから、そこに一種の紳士協定を結ぶことは滑稽だと授業中に言ったことがある。その紳士協定とはたとえば捕虜に拷問をしないとか、民間人を殺戮しないことだが、兵士の中に頭が狂っている者がいて、気晴らしにそういう残酷なことをしたことは、大人であれば誰でも想像がつく。そういう人間における残虐性は平和な時代では集団的ないじめという形で現われる。ネット社会はそのひとつの典型で、本当に殺しはいないが、言葉によって相手が自殺するまで追い込むことは珍しくない。そしてそういう攻撃性のある人が兵士になれば、同じ気性の者と同調して、相手国の民間人を何の迷いもなく虐殺するだろう。それは戦争が悪いと見ることも出来るが、そういう性質を人間が持っているので戦争が起きる。そして、政治家にそういう狂人が混じると、戦争を起こし、国家挙げて相手国を消し去ろうとする。日本はそういうことを試みてまだ百年経っていない。平成時代に戦争はなかったが、令和やその先の年号に戦争が起こることはあり得る。そうなれば人口減少に輪をかけて日本の滅亡は加速化するが、死に瀕したものはやけになることが多く、世界における地位が失墜して行く一方の日本が戦争を始めないとは断言出来ない。もしそうなれば、その予兆は現在確認出来るのではないか。それは国民の間に溜まる不満で、結局は幸福感の問題だが、それがお金で解決されると思う人が圧倒的に多い場合、富を他国から略奪してもいいと考えるだろう。人間は猛獣と何ら変わらず、他者を大切と言いながら本音は自分が第一だ。そういった面白くないことを思い出させる展覧会を2月16日の土曜日に兵庫県立美術館で見た。珍しくひとりで行き、その足で梅田のHARD RAINでライヴを見、その感想を真っ先に書きながら、本展については何をどう書こうかと考えあぐね、平成の終わり間際になってしまった。思うことは多々あり、数回に分けて投稿するつもりもあるが、最も印象に残ったことに話題を絞る。
 さて、筆者が子どもの頃は正義の味方の月光仮面が人気で、風呂敷でマントを装って遊んだものだ。そのヒーローの系譜は70年代のウルトラマンやゴレンジャーから、おそらく今も同様TV番組が作られていて、アメリカではスーパーマンから今のスパイダーマンまで健在だ。大人が子どもたちに正義を教えるという美しい思いがそこに見えそうだが、前述の戦前の日本の国際的な麻薬商売のように、正義は時代と国によって違う。イスラムの自爆テロは自分たちが絶対的に正しく、イスラム信者でない者は殺してもかまわないという歪んだ考えによるが、その歪みは彼らにはそうとは思えない。戦争とはそういうものだ。思いが違っても相手を尊重すべきと言われるのに、いつの時代でも戦争が起こって相手国の人をより多く殺そうとする。日本でそれが露わになったのが昭和で、この時代は筆者のように戦後生まれと筆者の親世代の戦前生まれとに分かれ、価値観が大きく異なる人が集まっている。そのため、本展の題名にある「昭和・平成」には取り止めがないように感じるが、「ヒーロー」と「ピーポー(PEOPLE)」という対比の切り口によって、昭和と平成のおよそ1世紀の美術を垣間見ようとする。まず、チラシやチケットに「のらくろ」のイラストが使用される。この漫画は筆者の世代にはほとんど馴染みがない。筆者は昔この漫画を手に取ったことがあるが、階級のある兵士を犬で擬人化していることと、吹き出し内の言葉があまりに古臭く、とても読む気になれなかった。今も気になっているが、今後も手に取らないだろう。筆者にとっての初めての漫画は当然戦後のもので、「のらくろ」とは違って正義の味方というヒーローものであった。もう少し年長つまり小学生5,6年生の頃は赤塚不二夫のギャグ漫画が好きになったが、その主人公は正義の味方とは言えず、勧善懲悪の物語をすでに偽善と思っていた。そう言えば10代後半には、アメリカの西部劇における、インディアンを殺す白人が正義とは言えないという批判が起こった。その考えから言えば、戦前の日本が「桃太郎」の物語に大陸を鬼に見立てたことも批判されるべきだが、その反省が戦後日本の学校教育でなされたであろうか。本展で常時上映されていた「のらくろ」の白黒アニメには、同じ問題があるかもしれない。理不尽に戦いを仕掛けた側が正義の味方というのでは、悪役にされた方はたまったものではない。だが、力のある者が弱い者を脅し、搾取するという弱肉強食が正義であると、大人が子どもに教える際、弱者にはそうされるべきしかるべき理由があることを捏造するだろう。いじめに合う子どもに非があるのでいじめられるという考えと同じで、大人になれば正義という言葉がいかに偽善的で白々しいものかと気づく。その一方、大人は真の正義があってほしいと思っている。
●『Oh!マツリ★ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー』_d0053294_23022060.jpg 筆者が子どもの頃に流行った時代劇のヒーローに鼠小僧がいた。子ども心ながらその貧しき者を助ける義侠心を格好いいと思うと同時に、為政者の幕府は腐敗している連中がいることも思った。月光仮面は鼠小僧の戦後版ではなく、義侠心を描くドラマは大人向きのヤクザ映画に移った気がする。そのヤクザ映画が消えたのは、日本が高度成長を遂げ、弱き者つまり貧しき者がほとんどいなくなったからのようにも思えるが、昨今の貧富の差の拡大に伴って鼠小僧の復活が期待されるかと言えば、単純な勧善懲悪ドラマはもはや古臭く、また時代劇の衰退も伴って、まずそれはないだろう。それに義侠心という言葉がほとんど死語になっている。仁や義の意味を理解しない若者が増えたためだが、これは儒教の本質を誰も教えないからだ。一方で日本はキリスト教が欧米のようには根づかず、弱者を助ける民間の奉仕精神がほとんど育っておらず、弱者は自己責任の名のもと、たとえば生活保護を受けることを糾弾されかねない。そのような状況では鼠小僧の登場は期待されず、かと言って政府が貧富の差の拡大を減少させる政策をするとは思えず、ヒーローのいない、そしてピーポーがばらばらの国にますますなって行くだろう。また現在のヒーローは勧善懲悪を体現する存在ではなく、ネット社会や芸能界を見ればわかるように、いかに有名でまた経済的な勝者であるかで測られる。そしてそのための競争に誰でも参加が可能で、その意味では民主主義的になったと言えるが、ピーポーの嗜好を分析してヒーローを生産する組織が主流となって、個人の力でヒーローになるのはめったにない。つまり、幻想的な作られたヒーローが次々と交代し、またそのことをピーポーは退屈しないこともあって歓迎している状態で、今のヒーローは一瞬だけでも輝いて多くの人に存在がわかってもらえるだけの消耗品になっている。そして驚くべきことだが、ピーポーからヒーローへの変身についてのあらゆる方策が出揃い、殺人を犯してまでもヒーローになろうとする若者まで現われた。それは正義が行なわれていないことや、貧富の差が絶望的なまでに拡大していることなど、社会への幻滅が一因にもなっているはずで、言い換えれば鼠小僧的なヒーローがおらず、いても目立たないからだ。本展とはあまり関係のないことを書いたが、美術作品でヒーローとピーポーの関係を表現することがどういうことかを、本展のチラシの裏面にこう書いてある。「……本展で注目する特別な存在=「ヒーロー」は、「ピーポー」が直面する困難やその願いを映し出す鏡としての、あるいはその存在に姿を与える触媒としての役割を担っています。」 そしてテーマを「集団行為」「奇妙な姿」「特別な場所」「戦争」「日常生活」の5つとし、展示作品は本展のために制作された新作もわずかに含むが、大半はこれまで見た作品だ。
 あまり人気がなかった企画展のようで、筆者が訪れた時は閑散としていた。そのため、じっくりと見たが、最も興味深かったのは、美術作品ではなく、1984,5年のグリコ・森永事件の紹介だ。その犯人は筆者が子どもの頃に流行った『少年探偵団』に登場する「かい人21面相」を名乗った。犯人の終息宣言により、また犯人は見つからないまま、数々の事件は時効を迎えた。この事件が凄惨な印象を与えなかったのは、菓子などの食品に毒を混入し、大企業相手に大金を要求したが、一般人からは死者を出さず、また警察を振り回したからでもある。後者は鼠小僧といった権力に対抗するヒーローとして国民から見られたところがあり、80年代半ばは義侠心を持つヒーローが消えていた時代でもあって、貧富の差の拡大に義憤を抱いた一般人が正義の味方がいないことに抗議の声を上げた事件と見ることも出来る。ただし、この事件を模倣し、あるいは発覚しなければ何をしてもいいという思いを国民に一方で植えつけ、国民が「かい人21面相」をヒーローとして持ち上げたことはなかった。展示のパネルに、月光仮面の生みの親の川内広範が週刊誌で「かい人21面相」に宛てた公開手紙が紹介されていた。川内は自分の財産から1億2000万円を犯人に差し出す代わりに事件から手を引くように言ったが、犯人は拒否し、また「川内はん あんたもええ男やな けどな わしら こじきやない」と返事した。このやり取りには、架空と現実、ヒーローとピーポーの交差がある。ヒーローの生みの親の川内は、大衆から登場した「かい人21面相」という悪のヒーローに対してどのような思いを抱いたのであろう。また犯人が食品会社を狙ったのはどういう理由からか。昭和30年代半ば頃まで、筆者は10円玉を握ってグリコのキャラメルを近所の菓子屋によく買いに走り、江崎グリコは子ども相手の商売で大企業ではなかったと思うが、高度成長以降に新商品のヒットもあって売り上げを大きく伸ばした。犯人はそのことが面白くなかったのであろうか。一方、これはひとりではないだろうが、月光仮面を名乗る人物が数十年も寄付を続けていて、昔のヒーローの義侠心を忘れない人がいる。地道でささやかな活動でもあるので、「かい人21面相」のようには騒がれないが、むしろそうした陰に隠れて寄付行為を続ける人をヒーローとしてTVやマスコミはもっと紹介すればよい。本展の「マツリゴト」はお祭りと政治を意味しているとして、今の日本は毎日が前者であり、後者は「ヒーロー」がいないことはいいとして、「ピーポー」のことを考えていないような停滞ぶりを見せ、ピーポーの中からヒーローになりたい者がわれ先にと出でしゃばろうとする。そして筆者のようなピーポーの端くれの老人の戯言は、疲労を感じさせこそすれ、ヒーローにまつりあげられる可能性が皆無であるだけに、言いたい放題で気分はよい。
by uuuzen | 2019-04-28 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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