ヒロポンは疲労をポンと取り去るのでその商品名がついたと思うが、筆者が20歳頃、友人の母親の親類かが、製薬会社に勤務していて、薬の名前を考えることを専門にしていた。

一方、これは下の妹が勤め始めた頃、新商品の名前をつけるのに商標登録されていないものを調べる必要があり、たいていの名前はもう使えないことがわかった。この商標登録の問題は中国との間でも生じていて、新しい商品名を考え出したと思っても、それは誰かが登録していることがよくある。自分が考えた名称がすでに誰かが使っているかどうかを調べるにはネット検索が便利で、今日筆者はある題名を思いついてそれを調べたところ、1件もヒットしなかった。そういう名前を見出すことを仕事としている人があるかもしれない。パソコン1台があれば出来るので誰でも始められやすいが、そう言えばわが家の近くに自宅でパソコンを使って仕事をしている人がいる。どういう仕事内容かは訊ねていないが、筆者がこのブログを書く時間をそういう仕事に充てれば、少しは収入の足しになりそうだ。その点、筆者はあまりに経済観念がない。隣家を購入しても倉庫代わりに使っていて、周囲からは「馬鹿じゃなかろか」と思われている。貸せば月10万にはなり、そうすればもう少しは気楽に暮らせるのに動こうとしない。それはそうと、最近疲れやすくなっていて、疲労をポンと取ってくれる何かがないかと今思ったが、もちろん薬は大嫌いで、自分で思いを変えることでいつも乗り切る。筆者は傍目にはエネルギッシュに見えているようだが、実際は自分ほど怠惰で無精な者はおらず、毎日をのらりくらりと過ごしている。それも疲れやすくなって来ているせいか、ともかく目の前にある気になっていることを少しずつでも減らして行く。それで今日は先月26日の続きとするが、今日の投稿で大阪天満宮は終わる。白米稲荷社の中に入ると、その奥の格子になった壁面から向こうに祠が覗いていた。その区画は境内の北端で、道路を越えれば星合池だ。今日の最初の2枚の写真はその道路を背にして並ぶ。1枚目には狐の像があって、これは稲荷奥宮で、ずらり並ぶ朱塗りの鳥居の突き当りに位置する。その左つまり西側にあるのが2枚目で、亀吉・鶴姫大明神社で、天満弁財天も合祀する。3枚目は白米稲荷社の西側にある妻社で大己貴大神を祀る。亀吉大明神と鶴姫大明神はその名称が長寿の夫婦を象徴しているようで、また漫画的であるのは陽気さにつながって覚えられやすい。だが、こうした小さな神社は名称を知ろうとしない限り、つまり神社に無関心であれば気に留まらず、神社側は宣伝に努めるのがいいと思うが、ネット時代になって訪れた人がその役割をするようになり、このブログもわずかながらその一端を担うだろう。それでも筆者には疲労がポンと出て来るだけのこととも言え、気晴らしになることを書かねば損という気になる。

それは読み手も同じで、TVと同様ネットは無料で見られるものが多いが、それには時間がかかるから、要領よく内容をまとめてある文章に人気があるだろう。最近筆者はあることを調べるのにそういうサイトにいくつか当たっているが、簡潔にまとまっている分、何を読んだのか覚えていない場合が多いことに気づいた。また筆者のブログなら1画面で済む文章量を5,6画面に分け、いちいち数字をクリックするのが面倒に感じるが、おまけに文章の間にいくつもの広告が入っている。それは新聞感覚の編集で、慣れれば広告は気にならないが、実際はストレスを無意識のうちに無視しているだけで、精神に嫌な負担がかかっているはずだ。そのため、筆者はそういうサイトをなるべく読まないほうがいいと思っているが、ヒロポンのような常習作用があるのか、見出しを見つけるとついクリックして読んでしまう。そこで思うのは、ネット世界では巧妙に読み手を誘う仕組みが巡らされていて、またそれに易々と乗じる人が多いであろうことだ、平たく言えば、金儲けの巧妙さだ。筆者の無料で読めるブログにしても、ブログ運営会社によって画面に広告が貼られ、それに誘導される人がたまにはいるだろうが、そういう商売の加担が嫌であれば、ブログ運営会社に毎月料金を支払い、広告を載せない手段を取る必要がある。つまり、ネット上で自由な表現をしようにも誰かを儲けさせる必要がある。ネット世界におけるこの金儲けの仕組みが現在の神社に応用されているかとなれば、たとえば亀吉・鶴姫大明神社が存在することで大阪天満宮として収入が社維持の費用と比べて多いのか少ないのかが気になるが、これは天満宮全体で儲かっていればよく、また天満宮全体で儲けるにはこうした目立たない場所にある神社の存在は無視出来ないだろう。賑やかさを演出出来るからで、摂社や末社はその役割を果たしていて、金儲けの仕組みは神社にもある。そういう根本原理を調べて参考にすることを、どの分野でも日々研究しているはずで、そう思えば表向きは金儲けを全然目当てにしていない筆者のこうした文章は、浮世離れしている意味での価値はありそうだが、それを読み手が感じ取っても筆者にそれはわからず、毎日ひとりで虚空に物を放り込んではそれが吸い込まれ、反応が得られない場面を思い浮かべる。それが虚しいのではない。疲労をポンと披露していると思われると少しは虚しいが、予定した文字数を書き上げると、その途端に筆者は覚醒し、また次の投稿へと思いが向く。それは小さなことでも決めたことをやり抜くことで得られる快感があることを意味していて、神社巡りにしても訪れていない神社をたまたま見かけると、いつかそこに訪れようという小さな計画が生まれ、次には写真を撮ってこうして文章を書く作業に勤しむ思いにつながる。疲労がポンと消えるのかポンと生じるのかわからないが。