留めるのに瞬間接着剤はわずかな量でいいと思うが、切り株上に新たなに出現した小さな招き猫の人形の底には、透明な接着剤がはみ出ている。
ほとんど1本を使ったかと思わせるが、それくらいに強固に接着させなければ誰かにもぎ取られやすいだろう。今日の最初の写真は先月7日、2枚目は26日の撮影で、どちらも嵯峨にスーパーに行く途中で桂川沿いの市営駐車場前で撮ったが、7日から26日までの間、嵯峨は歩いていない。夫婦だけの生活では頻繁にスーパーに行く必要がないからだ。また梅津のスーパーやたまには繁華街に出るので、その際に立ち寄るスーパーでも買い物は出来る。それはさておき、7日から26日までの間に写真中央下の黄色のフリージアが枯れてなくなり、そして誰かが新たに人形を設置した。右端と中央がそうだ。筆者がくっつけたものがなくなっていたのか、それを取り除いて新たに設置したことになるが、たぶん前者であろう。というのは、26日は写真を撮りながら背後に外国人観光客が何人も歩いていて、筆者がその場を離れた途端、イスラム系の親子数人が切り株前を歩き、その中の5,6歳の男児が人形に目を留めて奇声を発していたからだ。触ろうとする子どもを母親らしき人が止めていたが、中にはもぎ取ってしまう子どももいるだろう。それはそれで嵐山の思い出として記憶されると思うし、別段怒ることでもない。何しろ、勝手に切り株に人形をくっつけているのであって、褒められる行為ではない。それどころか、管理人に見つかれば怒られるかもしれない。あるいは管理人が面白がってしているのであれば楽しいが、その可能性はある。切り株は殺風景なものだ。嵐山にも太い木の切り株がとても目立つが、人々は意識してそれを見ないようにしている。切り株は木がそこにあったという証で、またそれは当の木の墓標でもあって、目障りな存在だ。だが、太い木では根が地中深く張っていて、それを除去するのは切り株にしてしまう費用の何十倍も要する。またそういうことを人は知っているだけに、なおさら切り株を見て見ぬ振りをする。そういう大きな木と違って、市営駐車場前の植え込みの切り株は中途半端に処理したことが明白だ。そのことは太い木の切り株とは大いに違って、とても雑な扱いであることを思わせる。またそのように哀れであるだけに、これらの小さな切り株に人形を設置することは、一気に華やかさを演出するのに最適だ。それはまた大きな切り株には同様のことが出来ないからで、このちょっとした悪戯は小さな子どもも喜ばせる。それは死んだ木の墓標を花で飾ることに似て、死んだ存在でも生きている者に役立つことを暗に示している。それはともかく、この人形は1年ほどしか持たず、いずれまた新たに設置する必要がある。嵐山に車で来る人は、この駐車場を利用し、出入り口横の植え込みを見てほしい。ま、見たとしても筆者にはわからないが。