らっきょうの皮を剥くような音楽と言えば誤解を与えるだろうが、猛烈に機関銃でらっきょうの粒のような薬莢を放っているような図を今思い浮かべた。それはともかく、このBLONDnewHALFというバンドはまず、とにかく元気がよい。

ヴォーカル、ギター、ベースの3人が男性で、ドラムスは女性だが、これ以上はないと言えるほどの引き締まった数曲を、ほとんど切れ目なしに30分ほど演奏し続けた。ランニングの際に聴けばリズムが合っていいかもしれない。それほど若さが溢れるが、YOUTUBEでは7年前の演奏が見られる。同じメンバーで同じスタイルの演奏を少なくても7年も続けると技術が極度に高まるのもわかる。彼らは神戸を拠点にし、金森幹夫さんによれば3日置き程度に演奏しているという。ならばよけいにタイトな演奏になるのは道理だ。最初に「らっきょう」と書いたが、それはどの曲もテンポが同じように速く、また曲の途中にサビという転調もなく、一本調子で突っ走り、ギターがさまざまな音色でリフを絶えず奏でるからだ。つまり、どの曲も似ているのだが、「らっきょう」というのは悪い意味ではない。これは蛇足だが、筆者はらっきょうは大好きだ。ところで、彼らは激しい曲の合間に耳直しとしてスローなバラードを演奏しないのだろうか。きっと演奏しないだろう。そういうライヴ・ステージとしての顕著な起伏を考慮していないことは、どの曲にもサビに相当するものがないことからわかる。一本調子とは普通は悪い意味で使うが、彼らの場合はそのことに逆に大きな意義を見ている。ロック・バンドではヴォーカリストが最も目立つが、このバンドのヴォーカリストはそういう歌をじっくりと聴かせるタイプには見えず、声を楽器のように使っている。もちろん彼らの演奏に合うリズム楽器としての意味で、またそれゆえに歌詞は重要ではないだろう。歌詞の半分はシャウトで、またそのリズムを強調する発声はこのバンドの大きな特色だ。彼はよく動き回り、ステージに立っている間はシャーマンの霊が乗り移っているように見えた。それはなかなか真似の出来ないことで、まだ若いからいいようなものの、ステージが終わった後の疲労度はそうとうなものだろう。だがそれを言えば他の3人もで、全員が同じ強度で火花を発しながら演奏している。4人がどれだけ目いっぱいに狂騒出来るかを競争しているようなもので、4人の間に禁欲的な精神の張り詰めが漂っている。4人で真剣勝負をしていると言ってもよい。その刃物のような空気を味わうことがこのバンドを聴く醍醐味だろう。だが4人は対立しながら調和している。あるいは4人ともそれを目指している。それに同意出来ない者はバンドから脱落するだろう。そこには趣味の合う者が仲よく仲間内でロックをやろうという一種の日和見の態度は皆無だ。またそれだけに演奏が清々しい。
ヴォーカリストとギターのみでこのバンドの本質が把握出来るが、ギターは単調になりがちな曲をきわめて個性的なものとすることに寄与していて、筆者はギタリストのJINTAさんの演奏をもっぱら見続けた。それを聴いていて心地よいのは、サビで泣かせようといった魂胆がどの曲にも見え透いていないからだ。つまり、これ以上はないという刹那的なストレートさが売りで、それだけに4人は等しく自分の役割を目いっぱい果たそうとしている。彼らは体型がかなり違い、JINTAさんは蝦茶色地に黄色や青、白などの大きな水玉模様のシャツに着替えたが、ヴォーカリストはそうではなく、また全員好きなものを着ている。JINTAさんの尊敬するギタリストは誰か知らないが、ザッパ・ファンであることは彼の演奏からは想像がつかない。筆者はそういう才能を買いたい。だいたいどのような表現者でも尊敬する先達がいるが、その作品を模倣しがちだ。またそれは模倣であるだけにとてもつまらない。ザッパのギターを尊敬すると、ザッパらしいギター・ソロが弾けるようになるだろうが、そのことにどれほどの意味や意義があるだろうか。JINTAさんのギターは短いリフを猛烈な速度で繰り返すことがほとんどだが、曲ごとにその色合いは違い、ミニマル手法を想起させながら、1曲の間でそのリフが驚くほど次々と変化し、全体としてとても色気がある。またそれは練習を重ねた確かな技術に支えられていて、安心して聴ける。エフェクターやボトルネック奏法を使い、また部分的にループ・ペダルも使っているかもしれないが、ヴォーカルの伴奏に徹しようとしながら、ヴォーカルとは対立しながら際立っている。もっとも、人間の声と違ってエレキ・ギターは多くの音色を発することが出来るから、それが目立ち過ぎるとヴォーカルを負かしがちだが、JINTAさんはそれをよく知っているのだろう。彼はステージの右端でしかもヴォーカリストのやや後方に斜にかまえて立ち、ほとんど顔をまともに見せずに演奏に没入している。その寡黙な雰囲気がまたよい。金森さんによればドラムスの若い女性は燻裕里さんのドラムスを担当することもあるという。4人はみな自分の役割に没入し、孤立しているように見える。では他のメンバーと代替可能かと言えば、そうではなく、4人がいてのまとまったバンドだ。ベースとドラムスは本来バックを手堅く務めるものだが、このバンドではヴォーカルとギターに負けずに力いっぱいに演奏する。ベーシストはメガネをかけて真面目で気弱そうな雰囲気だが、音の厚みと迫力はこれも時々憑依したかのような熱さを見せ、ドラムスも絶えず沸騰している。ライヴではそうした音量が体にびんびんと伝わる。それを通じて演奏者も聴き手もカタルシスを覚え、またそれをもたらすのがロックの本質だ。

BLONDnewHALFというバンド名の由来は知らないが、ブロンドのニューハーフかと言えば、ヴォーカリストが金色の短髪であったので彼がニューハーフかとなるが、女性っぽくはない。そこで「ブロンド」、「ニュー」、「ハーフ」と3つの単語に分けると、「ブロンド」はデボラ・ハリーのブロンディというバンドを連想させる。彼らは70年代後半のニュー・ウェイヴの代表格だ。そこで二番目の「ニュー」はそのニュー・ウェイヴを指すかもしれない。最後の「ハーフ」はメンバーにハーフがいるというのではなく、日本でニュー・ウェイヴ風のロックをやる点でのハーフとの思いとも考えられる。ニュー・ウェイヴとされる音楽に筆者は詳しくないが、彼らの機関銃のような打撃のリズムに終始する音楽はたとえばXTCにもあるが、XTCよりもっと過激で、またXTCにはあるソフトな綾はない。その意味ではニュー・ウェイヴの祖ストラングラーズのようなイギリスらしい翳りからも遠い。何曲目だったか、JINTAさんはブギの変奏を繰り広げた。それはやはりニュー・ウェイヴ・バンドで筆者が好きなTHE B‐52‘sを思わせた。もっとも彼らの曲ようなダンサブル性はなく、ただただリズムに乗せて体を激しく揺らすところに快感と開放感を求める音楽だ。そのことがニュー・ウェイヴに範疇に属しながらニューであり、また何かとのハーフなのかもしれないが、これはライヴハウスで活動する同様のバンドをもっと聴かねば筆者にはわからない。かつて世界的に有名になったニュー・ウェイヴ・バンドは今も活動している場合が多々あるが、それはニュー・ウェイヴが古典になってことを意味し、BLONDnewHALFがそうした古典を規範にして新しい音楽をやるのは、昨日取り上げたthe ジャンパーも同じで、今はあらゆる音楽が出揃った中からロックを演奏しなければならない苦闘と、演奏出来る気軽さがある。その間でどのように折り合いをつけるかは目指すものと具わる才能によるが、ロックンロールやロックが死なないのであれば、現在のロック・ミュージシャンの中からレトロでは片づけられない個性が出て来る。ただし、それが世界的に評価されるかとなれば、ハーフ性を運命づけられている日本では難しい。その日本的なオリジナル部分のハーフ性がたとえばYOUTUBEで世界に発信された時、どこまで海外で評価されるかとなると、これは誰にもわからず、またそれゆえにやり甲斐がある。それは日本文化全般が世界でどれほど普遍性があると認められるかに大いに関係した問題で、寿司やラーメンという食文化の伝播からかなり遅れて芸術は認知される。好き勝手にやり続けているものに世界が着目すれば、その理由は後でいくらでもこじつけられる。ほとんど3日置きにライヴをすることでしか得られないものがあるはずで、BLONDnewHALFの活動は正しい。