役不足を承知しながら今日はギャレン・エアーズのライヴの感想を書く。この女性シンガーソングライターの名前を知ったのは去年12月上旬、大阪北堀江のFUTUROで松本さんから今回のライヴがあることを小耳に挟んだ時だったと思う。

ともかく今回のライヴがなければ筆者には無縁であった。彼女はケヴィン・エアーズの娘で、GANZでのライヴは初来日ツアーの2日目として組み込まれた。それが特別に「ヤング・プログレ・フェス」と名づけられたのは松本さんのアイデアと思うが、「ヤング」と表現がギャレンには面白かったのだろう。舞台に立った彼女はそのことを話題にした。舞台に向かって左手最前列に陣取っていた上桂在住の池島さんが通訳のような形になってギャレンの語りを逐一訳したが、ギャレンが30秒ほど喋った後、池島さんが戸惑いながら5秒話すといった場面では、ギャレンは全部訳していないと言って苦笑いした。だが、ギャレンの話はさして重要な内容ではなかった。父との思い出も予期出来る内容で、いわばギャレンは客へのサービスのつもりで、曲ごとに和やかに語りかけた。アコースティック・ギターを弾き語りする彼女を、カースティ・ニュートンという同世代らしき女性キーボード奏者が伴奏で支えた。ふたりともイギリス人らしい女性で、ステージは華やかさに溢れて見えた。演奏が始まる前、筆者は畠中さんと話し、ギャレンがマイクの前に立った姿を見て、「見栄えがいい」と彼に言ったが、誰しも同じ思いであったろう。その背が高くて細身で美人という見栄えは、大柄でスマートな西洋犬とたとえてよく、物珍しさが主に占めている。またそういう見栄えのよい女性が演奏するとなると、そのイメージがいいように作用しやすい。そういう見栄えからまず魅のはせられる致し方がないことだ。そして日本では女性は若いほどいいという意見が大勢を占め、かくて10代の女性アイドルを量産する商売が大流行だ。そういうアイドルの音楽がある一方、わずかな固定ファンに支えられるライヴハウスを拠点にする音楽家がいるが、CDの売り上げが低迷し続けることに逆比例してライヴの本数が右肩上がりと聞く。今回のギャレンの初来日ツアーの観客総動員数は5か所合計で1000人に満たなかったと思うが、イギリスで人気に火がつくと、日本でも千人級の会場で演奏出来るようになるだろう。その可能性がどれほどあるのかとなれば、それは彼女にもわからず、ともかく小さなライヴハウスを回り、またCDを発表しながら活動し続けるしかない。そこにケヴィン・エアーズの娘であるという看板がどれほど役立つかとなれば、彼女の音楽性、また人柄次第だ。後者に関してはなかなか気さくで、すくすくと問題なく育った印象がした。そのことから逆にケヴィンの音楽性に関心が湧く。
彼女の音楽性については父親のどの時期の音楽を継ぐかにかかっているが、今回のようにギターとキーボードによる、しかも簡単なコードを使った伴奏に歌を載せる演奏は、フォーク・ファンには歓迎されても凝った音楽を求める人には物足りないだろう。だが、彼女の父の遺産を発展させたような個性溢れる音楽を求めるのは酷かもしれない。そこはわかったうえで彼女の演奏を楽しもうという人が会場に駆けつけたはずだ。
去年10月28日、FUTUROで金森さんは集まった客に「プログレを聴き飽きればフォークに行く」と言ったが、これはなかなかの名言で、GANZでのギャレンの演奏は凝った音楽を聴いた後の清涼剤のような効果があった。金森さんのその言葉は、ケヴィンの音楽についても言える。筆者は彼の音楽をほとんど知らず、ソフト・マシーンにしても後期のCDを何枚か持っているだけで、しかもほとんど聴かないが、彼のソフト・マシーンでの音楽性とその後ソロになっての単純な曲との一種のギャップは、金森さんの前言そのままを体現しているようだ。またそれはプログレとフォークが全く別々のものではなく、兄弟のように近いものであることを認識させる。筆者はここ半年ほど、毎月のようにライヴを見ているが、大きく分けてロックとフォークでそれぞれ活動する音楽家があって、後者は基本的にひとりで演奏出来る分、音はだいたい想像が出来るので、前者に比べて期待度は小さい。だが、ニエリエビタさんのように、いつもはひとりでギター片手に歌いはするが、時にバンドをしたがえる場合もあるという音楽家がフォーク畑にもいるので、フォーク・ミュージシャンがロックをやる人より地味で面白くないという先入観をなるべく抱かないようにしている。その伝で言えば、ギャレンもキーボード奏者のみではなく、ベースやドラムスを加えてライヴをすることはあるかもしれず、またそうなればより複雑な音楽を目指す可能性もある。先日児玉真吏奈さんのライヴについて投降した時、彼女のライヴでの曲は素描的と書いたが、ロックとフォークを対比させる場合、後者は前者の素描として考えてもいい。そのことを如実に思わせるのはジョン・レノンだ。『ホワイト・アルバム』時代の初期段階の曲はアコースティック・ギターにヴォーカルのみで、フォークと言ってよい音だ。そうした素朴なヴァージョンがカラフルな楽器で色づけされて初めてビートルズの曲となるが、そういう多彩な音の色づけをフォーク畑の音楽家がどれほど求めているのかそうでないかで、自ずとその素朴なヴァージョンも雰囲気が異なると思うが、筆者が好きなフォークは多彩さを感じさせるものだ。その点ギャレンの音楽はどうかとなると、今回のライヴだけはわからないものの、彼女の華やかな見栄えからして、バンドをしたがえるほうがいいのではないか。

同じことをジョニ・ミッチェルはしたが、彼女が見せる強烈な自己愛とそれゆえの孤独さはギャレンにはないように感じられる。そこがジョニとは違った親しみやすさとして、彼女の音楽を好意的に捉える人が少なくないだろう。これはケヴィンの娘であるという売り文句が不要ということだ。またそもそも父の音楽と比べて云々する人がいないと思えるほどに、彼女は真っすぐで裏表もないように見える。こうした直感は案外当たっていると思うが、若くてきれいな女性ミュージシャンの場合、その魅力の陰にどういう本質が隠されているかを詮索するようになるのは私的な対話が出来てからのことだ。大多数の人はそういうことがあり得ないままに彼女の作品を楽しむが、逆に言えばある程度その音楽性を深く知る、あるいは知りたい場合は、個人的な交際を多少は深める必要がある。何が言いたいかと言えば、最初に書いたように筆者のこうしたライヴ感想は役不足を自覚してのことであり、取り上げる音楽家ないしその曲の本質にどこまで肉薄出来るかとなると全く心もとない。また、音楽家とそれなりの個人的な交際を得ることによって作品の本質をより深く知り得ても、そのことはこうした場所に書くことは出来ない。そのもどかしさを感じつつ、筆者が感想を書くのは、自分の内面を見ることに役立つと考えるからだ。損得と言えば言葉はよくないが、時間と金を使った経験に対して何らかの益を求めるのは誰しもであろう。その益はライヴに接している間の愉悦で充分賄われているが、その愉悦を分析することで音楽家の本質がより見える。ただし、それをこうしたブログにどこまで書いていいのかという問題があり、よほどの嫌悪がない限りはいいと思ったところを強調するし、またそのことで自分の思いがそっちにより傾くことを筆者は自覚している。それは文章の力の不思議さで、同じことを音楽家は演奏に込めていると想像する。さて、ギャレンのオリジナル曲はどれも明瞭な歌声と伴奏によって心地よいものであったが、松本さんはライヴの開始前にケヴィンの曲「カリビアン・ムーン」の歌詞を印刷した紙を全員に配った。その曲を彼女が最後に歌うことを知ってのことで、松本さんは彼女を喜ばせるために、客が合唱すべき歌詞の箇所を記していた。ギャレンの演奏前に畠中さんに同曲のことを訊くと、有名な曲とのことで、メロディを口ずさんでもらった。その曲が始まると、松本さん初め、何人かが舞台に上がってギャレンに合わせて歌ったが、合唱の下りが来ると松本さんは客に指示し、打ち合わせどおりにうまく行った。音楽家にも客にも楽しんでほしいという松本さんの思いによって、当日のライヴは大成功であった。ギャレンが再来日するかどうかはわからないが、「大阪ヤング・プログレ・フェス」の4つのバンドを見て彼女は日本の音楽状況の一端を知り、また来たいと思ったのではないか。