幻想性を音で醸すにはテルミンやオンド・マルトノは最適と言ってよいが、あまりにそうであり過ぎるのが面白くないと考える人もいるだろう。そうした電子音が発見される以前の音楽でたとえばベルリオーズの「幻想交響曲」やシューマンのピアノ曲「幻想曲ハ長調」がある。

原題は「FANTASTIQUE」、「FANTASIE」だが、幻想性を表現するのにテルミンやオンド・マルトノは必要がなかったことになる。それに、音楽はもともと幻想を表現するものと言ってよい。作曲家がそう意図しなくても聴き手が何らかの映像を思い浮かべる。それは頭にだけあるもので、幻想だ。一方、「夢うつつ」という言葉があるが、「うつつ」は「現」で、夢と現実は差がないとも思われている。この「夢うつつ」を最もよく体現しているのは音楽家であろう。彼らは音楽に生きて音楽に救われている。どんなに経済的に貧しくても、音楽で自己表現出来ている間は世界一の幸福者と思っているだろう。いや、そんなことも考える暇もなく、無我夢中だ。つまり「夢うつつ」だ。その真実味に賛同出来る者が当の音楽家の固定ファンになる。先にシューマンを例にしたが、彼は40半ばで精神を病んで死んだ。その理由はいろいろと取り沙汰されているが、いかにも天才らしい短い生涯だ。筆者はかなり昔からシューマンに大いに関心があり、今も時々集中的に聴く。それはさておき、現在の日本の音楽家に天才がいるのだろうか。筆者は生きている間にいい音楽を聴き続けたいから、評価の定まった天才の音楽を優先するが、たまたまの出会いという縁もまた面白いと考えている。自分ですべて決めたことだけで人生を歩むことが最も幸福かもしれないが、明日は何があるかわからないという現実を前に、筆者個人では絶対に出会わない音楽との出会いはちょっとした自分の運命と思ってみるくらいの心の余裕を持っていたい。これは自分のことをよく知っていると思っている自我を揺さぶることでもある。予期せぬことに対峙し、こうして何かを書ける間はまだ筆者は生きる意欲の減退からは遠いと思っている。その意欲は若ければ若いほどあると思うが、筆者がこれまで生きて来た経験から言えば、案外そうではなく、若くても意欲の少ない人は多い。そういう人でも音楽家になる場合があるが、さてシューマンのような天才にはなるはずがない。それで筆者の関心外となるが、そう決めてしまってはまた面白くないので、直感を重視し、その直感に響く音楽があればその本質を探りたくなる。これは何事も決めてかからないという思いによる。また本質を探る過程で予期しないことがわかり、筆者の関心が思わぬ方向に広がる場合がある。そのことをこの半年で経験し、また現在進行中だが、こうしてライヴの感想を書くこと以外に筆者には別の計画のようなものが芽生えている。

さて、百様箱というロック・バンドの演奏について書くが、YOUTUBEで見られる演奏では、ヴォーカリストはバンド名を「ひゃくようばこ」と紹介している。小学校の校庭の片隅にあった真っ白な木の箱の「百葉箱(ひゃくようそう)」と何か関係があるのかどうかだが筆者はバンド名を見て「百面相」を思い出した。「様」と「面」は同じようなものであるから、その想像は当たらずとも遠からずだ。だが、彼らの演奏はどの曲も4人が大きな音でしかも猛速度で演奏していて、その意味では「百様」とは言えない。東京の早稲田辺りの4人組バンドと聞いたが、若さゆえの活力がほとばしり、また都会的な感覚が横溢する。それはR&Bの影響がきわめて少ないからで、また70年代半ばのイギリスのロックを思わせる。たとえばヴォーカルを抜くと、ジェスロ・タルのアルバム『パッション・プレイ』辺りからそのまま引用模倣したような箇所があちこちに聴き取れる。YOUTUBEで見られる「星喰い」はギターのリフがタルの「ベガーズ・ファーム」そっくりで、その点ではR&Bの要素も含む。ともかく、タルに近い音となればプログレで、複雑な曲をやすやすと演奏するほどに日本の若者のロックも成長したという感慨を深くする。それはTVから流れる音楽を聴いていただけでは絶対にわからない。ただし、半世紀近く前のイギリスのロックの水準に至ったというだけなら、それは驚くことではなく、当然であろう。そのことは彼らもわかっているはずで、タルにはない独創性の必要を自覚している。それが日本語で歌われるヴォーカルで、歌に耳をそば立てるとタルの音楽を思い出さない。歌はどれも哀愁を帯び、また音程が揺らいで決して上手ではなく、力量不足を感じるが、独特の甘酸っぱい世界はある。彼らは否定するかもしれないが、それは若者だけが許される青さといったものだ。それほど彼らは現在を精いっぱい生きている。彼らは筆者の子ども世代であろうから、筆者がそう思っても仕方がないところがあるが、そうであれば筆者は彼らの音楽をどのように楽しめばいいだろう。タル的なところを差し引いた部分に独創性がどれほどあるかとなれば、それは若くて真面目な今の青年たちという全身像だ。演奏を見ながら筆者が思ったのは、彼ら4人に魅せられる若い女性がおそらく少なくないことだ。まさか彼らは女性にもてることを意識して音楽をやっているのではないと思うが、若い女性たちが恋心の幻想を充分抱くほどに肉感性を発散している。それは筆者から見ればまたいかにも若さであって、タルの音楽が筆者にはとても懐かしいものであることとは別の意味で筆者からは遠いところにある。こういう感覚を一言すると「ノスタルジー」が最適かもしれない。そして彼らもそれを表現することに意欲を抱いているのではないか。
それは単なるレトロ趣味とは違う。彼らは最先端のロックをやっている自負はあるだろう。だが、最先端とは何か。最新の楽器や機材を使うことか。それもあろうが、今や最先端はファッションでもなくなって来ていて、百人百様に好きなものを着て似合っていればそれが格好よい。似合う、似合わないは自信を持っているかどうかで決まり、自信がなければ服だけが目立つ。そう考えると、最先端のロックは過去の遺産から手本を見定め、それと同じ技術水準で演奏することを最低条件として自分たちに課し、一方で今感じていることをどう合体させるかだが、その今感じていることは新しいデザインの服を作るというより、ファッションの着こなしに相当するもので、百様箱の音楽性はデジャヴ感とそうではない彼らの個性にある。またその個性の中にデジャヴ感が入れ子状に入っていて、玉ねぎを剥くようにして次々と現われる百様のデジャヴ感のその果てに残るものが彼らの本質だ。それがあるのかどうかとなれば、また振り出しに戻って玉ねぎとしての全体すなわち曲そのものに身を委ねて楽しむことで感じるしかない。そして、これは不思議なことだが、最初は気になっていたジェスロ・タル的なところがあまり気にならなくなり、疾走する哀愁を帯びたメロディは等身大の優しい若者そのものに思えて来る。ところで、GANZの舞台は4人が横並びになれば狭い。右端にキーボード奏者が陣取ったが、彼はキーボードをぐるぐる回転させながら、つまり跳躍しながら演奏した。その回転はどうにかぎりぎり壁面に当たらずに済むもので、筆者はハラハラしながら見たが、演奏をいかにも楽しんでいる余裕のその姿は若者らしくて好ましかった。また彼らの音楽性はキーボードの存在がとても大きい。タルの音楽を思わせたのもそのためで、特にギタリスト兼ヴォーカリストとは好みの音楽が違うのではないか。作詞はおそらくギタリストが担当していると思うが、彼はひとりならばフォーク・シンガーのように弾き語りをするだろう。タルではイアン・アンダーソンがそういう曲を多く演奏しているが、百様箱としてそうした静かでゆったりとしたバラードを演奏してもいいのではないか。今気づいたYOUTUBEでの「COLOR OF NOSTALGIA」という曲のイントロがそれに相当するが、やがて4人の合奏となるとロック性が露わになる。ところで、この「郷愁の色」という題名は先のデジャヴ感につながるし、また筆者は先に「ノスタルジー」という言葉を使った。若い彼らにも郷愁があるのは当然として、それをことさら意識するのは、彼らは筆者のような60代になった時のことを見通しているのかもしれない。それは筆者から言わせれば幻想に過ぎないが、筆者は今でも20代や30代に一瞬にして意識を戻すことが出来るから、人間は年齢に関係なく百の様態を持つ箱と言えるかもしれない。