眠りにくい夜には悪夢を見やすい。悪夢を見た朝はあまりいい気分ではないが、夢判断で調べると案外悪い兆しでない場合が多い。それで安心するが、またいつかそれに似た夢を見るかもしれないという不安と期待のようなものが芽生える。

そう言えば、息子が生まれて1年経った頃、よく寝顔が笑っていた。よほど楽しい夢を見ているのだなと家内と言い合ったが、思えば大人になってそんな楽しい夢を見た記憶はほとんどない。見たとしても寝顔は笑っていないだろう。筆者に限ってのことなのかもしれないが、面白くない経験をたくさんした大人は、よほど楽しい経験がなければ普段でも渋面を作りがちだ。ではその楽しい経験とは何か。賭け事は筆者には無縁なのでわからない。おいしいものを食べたり、高価な酒を飲んだりすることは早々とさほど楽しいことではなくなる。美女といい関係になっても、きっと妻のことがどこかに気がかりで、心から楽しめず、罪悪感から悪夢を見るだろう。これは男女ともにそうではないかと思うが、性差ゆえの考えに違いがあるはずで、特に30代の女性はそうではないだろうか。今日は夏場でもあるのでそれにふさわしい曲とばかりにテルミンの曲を取り上げるが、ジョン・ゾーンのレーベルTZADIKから2007年に発売されたパメリア・カースティンのアルバム『THINKING OUT LOUD』の冒頭曲だ。これを数年前にYOUTUBEでたまたま聴いて即座に興味を持った。YOUTUBEに彼女の演奏する様子が数編投稿されているが、8,9年前のものばかりで、彼女が現在テルミン奏者として活動しているかどうかわからない。アマゾンでは男性と一緒に作ったアルバムが1枚出ていて、そこでは姓が変わっているので結婚したのだろう。それを機に活動をやめたことも考えられる。あるいは想像を逞しくすると、パートナーと別れてやる気を失ったかもしれない。なぜそんなことを考えるかと言えば、彼女が精神を病みそうなほどに繊細であることを直感するからだ。というのは、彼女にとても似た顔と雰囲気の女性を筆者は昔出会ったことがあるからだ。長年年賀状のみの付き合いだったのが今年は途切れた。独身のまま還暦を迎え、芸術関係の仕事をしているが、誰でも一見すれば彼女の独特の雰囲気に気づく。それは陽気を装っても基本は暗さで、男は魅せられるだろうが、近寄るととんでもない泥沼が予想され、怖気つく。そういう彼女は独身のままというのは大いに理解出来ることで、彼女も孤独を感じながらももう諦めているだろう。お金はたくさん貯めたはずで、その点では怖いものがなく、現状のまま好きなように生きて行くはずだ。またそれしか道がない。彼女の生い立ちはかなり複雑で、また不幸であったが、筆者は彼女を通して未成年時代の過程環境によって彼女のような個性が生まれることをつくづく思った。
筆者は精神の病については知識がない。またあまり知りたいとも思わないが、筆者も彼女と似た子ども時代であったので、彼女の痛々しいほどの繊細さはよくわかる。筆者も小学生の頃は担任から通知表の父兄通信欄でよく「情緒不安定」とよく書かれた。これまでブログに何度か書いたように、担任の先生は母に「殺人を犯さないほどの激情にかられることがある一方、天才的な仕事を成し遂げる」とも言ったので、ネットではよく見かける神経症と精神病の間くらいの病であったのだろう。そういう少年時代であったので、自分に似た性格の人物はすぐにわかる。これは筆者に限らず誰でもそうだろう。独特のひりひりする神経過敏さが全身からほとばしっているからだ。さすがに経験を重ね、高齢になって来たので、今では心の奥深くにそういう精神錯乱気味の激情を頑丈に閉じ込めておくことが出来るようになったが、それでも自信に満ちてはいない。筆者の予期出来ない何か、つまり理不尽な対人関係に見舞われると、筆者は爆発するかもしれない。ま、これも誰しもそういうところがあると言えばあるので、ことさら深く考える必要はないが、筆者の場合は片親で極貧という珍しい家庭に育ち、また子どもは知ってはならない周囲の大人たちのドロドロとした行為の数々を目の当たりにして来たこともあって、中学生になった時はとても内面は大人びていた。また逆に表向きはその反対でいつまでも子どもっぽかったが、それはおそらく自己防御本能によるだろう。そうそう、筆者は赤ん坊の頃のことをとてもよく覚えている。それを他者に話すたびに嘘だと言われるが、母のおっぱいを吸いながら見上げた母の顔や、白い柵で囲まれた小さなベッドに寝かされて、頭上に回転していた赤ん坊の玩具など、いくらでも0歳児の映像と音を思い出せる。それは記憶力がよいためのようだが、実際は幼少期に精神的な傷を負ったからだと何かで読んだことがある。つまり、赤ん坊の頃の記憶があるのはまともな人間としてはまずいことというのだ。平たく言えば精神的欠陥があって、神経がきわめて細く、また自傷行為をしがちとも言われる。筆者は刃物は使わなかったが、自分の体を自ら傷めつけることは、具体的には書かないが、30歳頃まで治らなかった。それが完全になくなった、あるいはそう思えるようになったのは、自信を得るきっかけがあったからだが、誰しもそうなるとは言えないところ、筆者は幸運であった。それはさておき、芸術家、表現者というのは、幼少期に決定的に精神的な傷を負い、それをどこかで忘れていないのではないか。それを癒すために自分の世界を創造するのだが、そのためにもその表現物は悪夢を再現したようなところを保持しがちで、幼ない頃に経験した悪夢を別の形でどこかなぞりながら克服しようとする。

パメリア・カースティンがそうだと言い切るつもりはないが、筆者は彼女の演奏する姿やその音楽を聴いていると、堂々として自信に満ち溢れているのではなく、自分の音楽が個性的かどうかを気にせず、本能で奏で、そのことで自己を癒しているように感じられる。これは自己満足の作品と言われそうだが、そうであっても独創性に劣るとは全く言えない。「LONDON」を最初に聴いた時、たとえばイギリスのブラム・ストーカーの世界を思い出したが、パメリアは霧の深いロンドンの夜の街やそれから連想される陰鬱ともいえる詩情をテルミンで表現しようとしたのではない。ロンドンで演奏したのでそう名づけただけで、CDの他のほとんど曲もそうだ。また他の国で演奏した曲はみな構成も含めて「LONDON」に似ていて、同じ曲の別ヴァージョンと言ってよいが、それはいつどこで演奏しようとも、彼女には即興で表現したいものがあることを意味し、またそれは前述の彼女の幼少期の経験と深くつながっているだろう。そう想像するととても痛々しいが、彼女は大人であり、大勢の前で演奏するのであるから、自分を客観視する能力も身につけ、作品の完成度を最重視しているはずだ。そのことは「LONDON」を一度聴けばわかるし、この曲を筆者が取り上げるのもその点においてだ。つまり、ここには誰にも模倣出来ない独創性がある。だが、CDの帯には「長年待たれていた初CD」と書かれ、その後はソロCDを出していないところ、彼女に何かがあったと考えられる。それが結婚して落ち着き、遠い昔の傷を思い出さなくてもよくなったためか、それとは逆に失意に沈んでしまったためか、筆者は気になっている。もちろん前者であってほしいが、そうだとすれば、本CDは彼女にとって思い出したくない辛い過去を封印するための試行錯誤の痕跡と捉えることも出来る。昔の悪夢はいつ蘇って自分を苦しめるかわからない。その恐怖の前にあって、それを凝視し、また消し去るためには、自分の思いどおりの作曲で対峙するしかない。そういう作品には音を飾り立てる意味での虚飾が入り込む余裕はない。そのため、気楽な気持ちで聴いても、心のどこかが緊張し続け、ゆったりとくつろぐ気分にはなれない。悪夢を見た後の目覚めの悪い朝のようだが、前述したように、そういう場合はいつかまた夢の続きを見たいという「怖い物見たさ」の関心も芽生えるものだ。また、パメリア自身はどの音も必然があって奏でるもので、また奏で続けることで心に沈殿している悪夢を吹き飛ばして行くのだが、音を奏でることは悪夢を絵巻のように眼前に描き出すことであって、そうして呼び起こした悪夢に別れを囁いているという雰囲気がある。またその悪夢は実体がどこか定かでない、あるいは凝視することが出来ないほどの辛いもので、それゆえに時と場所を変えて演奏するたびに少しずつ音楽が変わる。
パメリアは少し黒人血が混じっているだろう。本CDではテルミン以外にギターとピアノを担当していて、5「CREATURE TO PEOPLE(動物と人との)」はサティを思わせる静かなピアノ・ソロで、癒しの音楽という形容がふさわしいスタジオ録音だ。6「BARROW IN FURNESS」は2分経った頃からテルミンがブルースのベース音を模し、そこにヴァイオリンのように聞こえるテルミンが重なり、数人で演奏しているように聞こえるが、後述するルーピング・ペダルを使っての独奏で、ツアーで収録された。本CDはそれら2曲以外はジャズとはほとんど関係がないか、そのように聞える。テルミンは20世紀初頭にロシアで発明された世界初の電子楽器で、その後フランスではよく似た音色を出すオンド・マルトノが発明されたが、これはメシアンがよく自作曲に使い、またフランス映画を初め、ヨーロッパの映画では60年代まで映画音楽の中心楽器として奏でられた。筆者はそういう映画音楽を10代に聴いてよく覚えている。それは日本で言えばお岩さんの幽霊映画にぴったりの音色で、そこから鋸を楽器として使い漫才師も出て来た。テルミンは日本でも人気があり、もっと手軽にした機種が大いに売れた時期があったようだ。慣れない間は感電しそうな気もするが、弦楽器と違って弓は不要で、入門しやすそうだ。パメリアの演奏は奏でた一連の音を録音して即座にリピートさせる機能の機器を使うもので、本CDのジャケットのパメリアの鏡像はそれを暗示している。ジャケット内部には「theremin with L6 looping pedals and microsynth」と記され、テルミンを両手で奏でるからには当然だが、音をループさせる機器を足で操作していることがわかる。彼女の場合、このループがまたとても複雑で、また音形が長い。いくつもの音形を次々に重ねて行って、1台のテルミンとは思えない。また「LONDON」はさほどでもないが、雑音に近い音をループさせる場合があって、その点も悪夢の再現のように感じさせるが、悪戯を楽しんでいるというよりは、そういう音も普通の馴染みのテルミンの音と同じように扱う必然があるように聞こえる。先に書いたように、聴き手を驚かせて面白がるという態度ではなく、切実なものが伝わる。全部で50分ほどの演奏のCDの最後で彼女は観客の拍手に応えて笑いを交えながら少し語るが、それもまたどこか異様で、きわめて恥ずかしがり屋の性質をよく伝える。多くの人に囲まれて本心を晒しながら演奏はしたが、人間を信じていないと言ってもよい。その孤独を動物やペットで癒す人が多いが、彼女の本CD以降の動向が伝わらないのは、最悪を考えると精神を病んだこともあり得る。本CDをたまに無性に聴きたくなる筆者はもちろんそうでないことを願う。