緑色の文字で印刷される本展の題名で、チラシの裏は周囲をやはり緑色で囲む。では斉白石の絵画は緑色が目立つかと言えばそうでもない。あまり使われないから、緑を強調したチラシのデザインにしたのだろう。

今日は今月13日まで開催中で、先月6日に京都国立博物館で見た斉白石の展覧会について書く。白石のまとまった数の作品が同館でおそらく初めて展示されたのは、筆者のブログを調べると
7年前だ。今回は斉白石に絞り、また7年前と同じ中国の北京南画院の所蔵品を展示する。7年前と同じ作品が目についたが、今回は80点ほどと多く、そのほかに印章が30顆ほど、それに画稿が20点ほど展示された。館内は中国人観光客が目立った。彼らはまさか日本の博物館で中国絵画の特別展が見られるとは思わなかったのではないか。普段は絵画に縁のなさそうな人ばかりであったからだ。ただし、筆者が羨ましかったのは、彼らは絵の賛がすらすら読めることだ。実際立ち止まってそのようにしていた人を見かけ、篆書の大きな書の前に立ってそれを声を出して読んでいる若い女性もいた。これは中国の南画の歴史が現在に充分伝わっているとまでは言えなくても、賛がどういう意味を持っているかを若者でも読めることを示し、その分、斉白石の絵画は生々しく生きている。会場にあった説明書をもらって来たが、そこの最初に斉白石は日本の横山大観と熊谷守一を合わせたような画家である書かれる。白石は1864年から1957年まで生きたが、大観の生没年は1868、1958、熊谷守一は1880、1977であるので、ふたりとも同時代の画家だ。また日本画の大観と洋画の熊谷を持ち出すところが面白い。斉白石は清末期から革命後という激動の時代を生き、中国絵画が西欧の波を受け、日本画の影響も被ったところに位置することを思い起す必要がある。若き日に日本に留学した徐悲鴻(1895-1953)は最晩年の白石を北京の芸術学校の教授として招聘したが、それは中国絵画が近代化するうえで白石のような南画が無視出来ず、また白石の絵が近代的でもあったからだろう。そういうことを踏まえると、大観と熊谷をたとえとして持ち出すことはなるほどと思わせるが、どちらかと言えば熊谷の絵に近い味わいがある。素朴であり奔放という点がそうであり、また熊谷よりはるかに力強いが、それは熊谷の絵画が日本美術史で割合孤立しているのに対し、白石は先人の南画家を尊敬し、模写を通じて学び、それを自作の糧としたので、中国の壮大な南画史の最後の輝きとして見るべきだ。その意味では鉄斎(1837-1924)により近い。双方がお互いの作品を見たことがあるかどうかとなれば、鉄斎は呉昌碩(1844-1927)に印章をいくつか彫ってもらっているので、長尾雨山は白石の作品も日本にもたらしたのではないか。

白石は呉昌碩の絵にも学んだが、より華麗なのは呉で、白石の絵は余白がより大きいように感じる。それはそれの持ち味だが、筆者はそれが中国の茫洋とした大地の空気のようなものと感じる。乾いていると言ってもよい。またその味わいは共産国の印象がまとわりつき、その意味で同じ雰囲気の日本の絵画はない。そこが白石の絵を好むかそうでないかの分かれ道で、筆者は馴染めないでいる。政治の動きとは無関係に淡々と描き続けた白石だが、それでも時代の動きを感じざるを得ない。また徐悲鴻のようなエリートではなかったので、中国絵画を革新するといった大望を持たなかったと思うが、その孤高さがひとりの南画家としては理想的に生きたと目されるように年々なって来ているのだろう。現在の中国において南画の伝統がどうなっているかと言えば、北京南画院の玄関の写真が本展にあって、老朽化がひどく、蔦などの雑草も目立った。それを見ればほとんど存在は忘れ去られていると言ってよいだろう。現在の中国では南画を描いても食べて行くことが難しいのではないか。日本でも同じで、鉄斎は最後の南画家と言われる。技術は細々と伝わっても、先人に充分学んでそれを革新する才能は同じ道を歩もうとする者が少なければ現われにくい。だが、鉄斎の絵の賛をすらすら読める人はきわめて稀であるのに、白石の自賛や書は中国人ならば意味どころか、その韻律も味わえる。その意味で伝統は途切れておらず、また日本とは異なる見方が白石に対してなされているのではないか。それは今に始まったことではなく、中国から漢文を持ち込んだ時からのことで、日本では南画は一部の知識人が愛するものとして機能して来た。鉄斎は自分が画家ではなく、儒者であって賛を読み取ってほしいと言った。貧しく生まれた白石は30歳近くまで家具職人で、またその技術が素晴らしかったとされるので、職人肌であった。もちろんその後は絵や詩文、篆刻本格的に学び、各地をよく旅行したので、文人画家としての資質を充分に身につけたが、鉄斎のような衒学的なところはなかったと言ってよい。また鉄斎は白石の絵を見たとしても、あまり評価しなかったのではないか。前述した館内にあった資料は、「巨匠の努力の跡―斉白石の画稿について―」と題し、本展に並ばない個人蔵の作で本画としての「倫桃図」と、その画稿の図版を左右に並べる。80歳頃の作で、左右反転はしているものの、白石が画稿どおりに本画を仕上げ、即興で簡単に描いたように見えて、周到な下絵を作っていたことがわかる。その下絵と完成作の猿の寸法が違うのか、ぴたりと一致するのかだ。後者であれば透かし写しをしたことになり、その点は鉄斎と大違いだが、透かし写しは家具職人時代に培った技術と考えてよく、それを生涯保持したこと意味する。
先に乾いていると書いたが、白石は蝦や蟹をよく描いた。その意味で水の潤いを感じさせるが、そうした絵でも白石ならではの当時の中国を反映した、呉昌碩の作風を疎にした味わいがある。それは却って呉昌碩の絵画よりも「間」の美を謳う日本では馴染むだろう。それゆえ「巨匠の努力の跡」では熊谷守一の名前を出したと思う。ところで、筆者は斉白石の水印版画の蛯図の掛軸を所有する。これはコロタイプ印刷以上に本物と区別がつきにくい。日本の木版画と違うのは、画仙紙を使い、またそれを湿らせて摺るので、版木上の墨や絵具が本物の水墨画のように滲んで仕上がる。その滲みのぼかし足の長さを本物と同じように摺るために水の含ませ具合を調節するが、それがにわかには信じ難いほどの仕上がりだ。つまり、木版画でも日中では技法が著しく違って発展した。そこに斉白石の作品を持ち出すと、同時代の日本によく似た画風の画家がいないことに気づく。それは白石没後もそうで、南画ないし水墨画は日中ともに廃れ、またよく言えば個性的な作品が生まれるようになって来ている。その個性は先人にあまり学ばない自己流に邁進するからだ。その意味で伝統とはあまりつながらないが、それでもよいと考える人が増えるとそれもまたいずれその時代の本流となる。そのことはあらゆる芸術表現について言える。中国では特に偉大な先人がきら星のごとく無数にいて、後世になるほど身動きが取れなくなって来た。そこで辛亥革命が起こり、日中文化交流は新たな段階を迎えたが、斉白石の評価は先人画家に学びながら時代を表現したからだ。また何度も書くように白石の作品は中華人民共和国を代表する空気がある。それは映画『ドクトル・ジバゴ』のほとんど最後の場面を思い起させる。市電に乗ったジバゴは革命後の街中で歩いているララを見かけるのだが、急いで電車を降りて彼女を探しても見つからず、そのまま死んでしまう時の街の風景のカメラ・アングルが、いかにも共産国家的だ。それは監督が共産国家のひとつの本質をよく知り、それを場面に表現出来たことを示すが、白石の絵画全般に流れている同様の空気は、白石が意図せずに無意識で表現したものだ。資料豊富な映画監督とは違って、白石は生きた時代に敏感に、本能的に反応した。それを現在の中国人がどう読み取っているのかどうかとなれば、画家として自由に生き、また政府から「人民芸術家」の称号を与えられた事実は、国のイデオロギーがどうであれ、画家はそれとは関係のないところで表現することを思うはずだ。そのことが共産党員にとって少々まずいことではないのかと感じるが、現在の中国はほとんど自由主義経済となって、共産主義をあまり足枷と思わないのかもしれない。チラシやチケットの鷹の絵は八大山人の下手な模写のようだが、彼よりはもっと明るく、また皮肉的でもない。筆者は八大山人の絵がほしくてたまらないが。