桐の木は見てすぐにわかるが、椋の木は特徴を知らない。榎に似るというが、榎も名前だけ知るだけだ。ムクノキは神社でよく見かける気がするが、天然記念物に指定される巨木もある。
一昨日は野見神社について書き終えた。今日は野見神社を訪れた帰り、城北通りを挟んで東側の角地で見かけた「ムクノキ大明神」について投降するつもりが、ネットで調べると野見神社について大きな間違いを書いたことに気づき、その訂正を優先する。投降した3回分は書き直すのが面倒なので、今日は予定を変えてその3回分で間違った箇所について書く。まず、高槻城が現在のどこまでが範囲であったかだ。これを間違えて書いた。現在の地図上に城郭を重ねた資料がネットにはなかったためだ、それを今日は「しろあと歴史館」に展示されている城郭の地図を参考に自分で作成した。今日の画像の黄色の線が外濠だ。江戸時代と現在とで位置が変わっていないのは今日の地図の右上で赤丸で囲った本行寺だ。それに気づいたのだ。この寺は城郭の東北角の外側にある。それを目印に城郭の地図を重ねると、面白いように外濠が現在の道路に一致する。そして野見神社は江戸時代と同じ場所にあることがわかった。外濠の外に永井神社があると書いたが、そうではなくてもともと城郭内部の野見神社の隣りにあったのだろう。城郭の北西角は国道171号が斜めに入り込んだ。その国道に平行して100メートルほど北に阪急電車が走る。どちらが先に出来たにしろ、城跡を極力避けたことがわかる。野見神社を別にすれば、現在の城跡内部にはしろあと歴史館、歴史民俗資料館、現代劇場、警察、商工会議所、病院、自治会館、高校、中学校、保育園が大半を占め、周辺部にマンションや民家、店舗がわずかに入り込む。黄色で囲った部分のうち、筆者が歩いたことのある区域は北3分1程度で、いつか城郭東端中央の八幡大明神を訪れるついでに黄色の道筋を一周してみようと思う。それだけでは退屈なので、もっと南方に何か見物があればいいが、城郭南端から淀川までは2キロほどで、その間は地図を見るとだいたいどういう風景が広がっているかは想像がつく。大型スーパーや大型電気店、それにいくつかの学校にゴルフ場で、小さな神社もほとんどなさそうだ。ということは、京都から淀川を下ると、高槻では遠くに天守が見え、また淀川の船運による物資を城下町に持ち込むための道があったはずで、その道路が現在の枚方大橋に通じる外環状線の170号線かと想像する。また対岸の枚方との間を往復する渡し船もあったに違いない。枚方大橋南詰の東200メートルに
鍵屋資料館がある。京阪電車の枚方公園駅を降りてそこを訪れ、感想をブログに書いたのは12年前だ。その鍵屋のある辺りを高槻側から臨むのも一興で、まだ見ていない高槻市立歴史民俗資料館を訪れたついでに足を延ばすのもいいか。