背面はあまり重要ではないことは人間が危害を加えられそうな時、背中を見せて屈み込むことからもわかる。そのため、神社も鳥居のある正面が重要で、その前で人は拝む。そして本殿の背後がどうなっているかを確認することはめったにない。
そこはだいたい塀で囲まれて見えず、また塀は本殿ぎりぎりに迫っている場合が多い。野見神社の永井神社は鳥居奥の唐門の金色の金具がなかなか立派だが、これは修復されてまだ10年ほどしか経っていないからだ。修復は教育委員会が行ない、また城跡という歴史遺産をどう後世に継ぐかを考えて民俗資料館や歴史館を建てた。尼崎市では大きな電気店の社長が私財を寄付して天守がもう建とうとしているが、高槻にも同様の金持ちはいるはずで、現在の城跡に高槻城を偲ぶ建物がどこまで復元出来るかと思う。城跡は阪急の高槻市駅の南西に位置してのどかな雰囲気はいいが、高槻は観光資源に乏しい。野見神社も目立たないので、高槻城を幾分かでも復元すれば多くの観光客が訪れるのではないか。そのための発掘作業は全部終えているはずで、詳細な城郭の配置図がネットで見られる。それを見て気づいたが、永井神社は城郭内部に見当たらない。現在の野見神社が創建当時からの立地とすれば、それは城郭の外濠を越えてすぐの西北角辺りで、そこには民家がなかったようだ。城を取り壊した後、野見神社を永井神社のすぐ西北に移したのだろう。そのため、城北通りの南端から玉垣を越えて境内に入ってすぐ右手にその神社があるのは、野見神社よりも優先したための位置であることに気づく。永井神社、野見神社、そして戎神社の順に社が建てられ、そのために境内が少し雑然としている。野見神社は9世紀末に疫病が流行り、神仏習合の牛頭天王を祀ったのが創建で、八坂神社と同じだ。高山右近の戦国時代に社領が没収されていたというが、その後は元に戻ったのだろうか。高山右近像のあるカトリック教会との間に建った現代劇場の土地は、以前はどこの所有であったのだろう。現在の野見神社はかなり狭い気がするので、江戸時代は現代劇場の土地を含んでいたのではないか。それはともかく、江戸時代も牛頭天王社と呼ばれていたのが、明治の神仏分離によって牛頭天王は須佐之男命に変えられ、また野見宿禰(のみのすくね)を合祀して野見神社となった。須佐之男命はヤマタノオロチを対峙した神だ。野見宿禰命は『日本書紀』に登場する出雲から招かれて角力に勝ったとされる神で、野見神社は運を勝ち取る御利益があるとされる。これはスポーツの試合に限らず、入試や入社にもいいということで、なかなかうまく出来ている。拝殿の写真は21日投降の「その2」に載せたが、永井神社のすぐ西に石畳の参道が真っすぐ続き、永井神社を見た後にそこに踏み入ると、前方に拝殿があって意表を突かれる思いがする。
拝殿の奥に本殿があり、その東西奥に小さな社が見えている。今日の最初の写真は拝殿に向かって右すなわち東の小島神社だ。鳥居が少し右に傾いているが創建は不明で、4柱の祭神を祀る。境内の東北に位置してひっそりとしているのでお参りする人があるのかどうか。拝殿に向かって左奥には2枚目の写真の朱塗りの鳥居の四社明神がある。これは牛頭天王社時代にあった祖霊神社、磐神社、稲荷神社、福神社の4つの末社を大正時代にひとつにまとめたものだ。やはりお参りする人は少ないと思うが、小島神社と違って朱の鳥居は野見神社では唯一でよく目立ち、参拝者は吸い寄せられるように鳥居の前に行くだろう。この朱の鳥居は稲荷神社を代表しているように感じられ、戎神社に詣でたついでに拝む人が少なくないと想像する。祖霊神社は明治の創建で歴代宮司や神官を祀る。磐神社は徳川吉宗の時代の創建で、3柱を祭神とし、災禍や邪霊を清めるとされる。稲荷神社と福神社は城主が18世紀末に創建した。後者は風、火、鋼、土、水の祭神を祀るが、5柱ではなく7柱となっている。四社明神はこれらをすべて合わせ祀り、もう何でもありといったところだが、これら摂社、末社には例祭があるようで、神社としては忙しい。3枚目の写真は拝殿の西横で絵馬の絵柄目当てに撮った。相撲を取る褌姿の男がふたり描かれるものが最も多く、野見宿禰命を祀る神社らしくてよい。写真の右端にお参りした後の青い帽子を被った家内が小さく見えている。野見神社のホームページによると、護国神社もある。鳥居がないのでわからなかったが、四社明神の西側であろう。祭神や創建などの由来は不明とされるが、西南の役から太平洋戦争に至るまでの戦没者を祀るからには、老朽化した場合も取り壊さず、同じ場所に建て変えるのだろう。護国神社と四社明神の間に石畳の参道があって北の出入り口につながっている。グーグルのストリート・ヴューによればその出入り口は車の出入りが可能で、駐車場もある。またその出入り口近くの城北通り沿いに「泣き相撲」の看板や幟旗が目立つ。看板には「お子様の健やかな成長を祈願する。奉納 泣き相撲 四月二九日(祝)」とあって、赤ん坊が対面してどちらが先に泣くかで勝ち負けを決める相撲が催される。全国に同様のお祭りがあってTVでよく紹介される。さて、2年前の10月、家内の誕生日に高槻の上宮天満宮を家内と訪れたが、それ以来の高槻市内の神社詣であった。筆者は阪急の高槻市駅から家内の実家までの道のりやJRの高槻駅周辺以外は高槻市内の土地勘はほとんどなく、高槻を文化度のあまり高くない街と思っているが、古墳や城跡を見る限り、落ち着いた環境のよい地域が多いことを知る。とはいえ、自転車を駅前で借りてでも見たいところはなく、興味があるとすれば市内の西国街道をすべて歩くか自転車で走りたいことだ。