堤防の高さは川幅におおよそ比例するとして、高槻市内の最大の河川である芥川の堤防は、3年前に今城塚古墳に駅前からレンタサイクルに乗って西国街道を西進した時にちらりと見た程度だが、それなりに高さはあった。
同様に高い堤防は家内の両親の墓のある天川だ。それは芥川よりかなり細く、また高槻市駅より東にあるが、市内のどの川も北から南に流れて淀川に注ぐ。高槻城の跡地は、その北端に「しろあと歴史館」が位置し、そのすぐ南に中学校があるが、野見神社は元はその中間の城内にあった。現在の神社がどこか雑然としているのは、城内部から城の外郭の西に隣接する住宅地に移動したためであろう。一方、城の東端中央にあった八幡大神宮は現在も同じ場所にある。現在の城跡の外郭はかつての城の外濠に一致し、城北通りが現在の野見神社の東端で直角に曲がって「しろあと歴史館」に続くその東西の道は、北端の外濠であった。天守があった場所は現在民俗資料館や公園になっているが、筆者は足を踏み入れたことがない。家内は高校に通っていた頃、15日に筆者らが歩いたように、城北通りを北に進んで国道171号線をわたらず、学校から東に向かい、それから北上して国道を越えて阪急の駅前に出たそうだが、当時と現在とでは駅が高架になるなど、駅周辺は大きく変わった。それは現在も続いていて、15日は家内の実家からタクシーで義兄を含む4人で駅前に向かう途中、おしゃべりのタクシー運転手は八丁畷交差点から阪急の線路沿いを駅に向かう途中、右手すなわち北側に広がる巨大な空き地が紆余曲折を経て大きな公園になると説明してくれた。また一時はサッカー場を作る案があったが、面積的に無理があったとのことだ。その巨大な空き地は以前は京大の農園であった。電車からその古い洋館とその前に整然と並ぶ樹木や畑がそれなりに美しく見えた。そう言えば、家内の母や姉が亡くなった駅前の大阪医科大附属病院も古めかしい建物がきれいに建て替わったが、もう以前の姿を思い出せない。それはともかく、野見神社の戎神社の社殿が新しくなったのは、以前の建物が昭和半ばのもので、歴史的建造物にはならないとの思いもあったからだろう。神社の境内そのものが新しければ、時代の要請に合わせて戎神社を新たに創ることはかまわず、また建物も別の場所に別の形で建てても誰も文句を言わないだろう。そう考えるとあまりありがたみがないが、歴史を調べて参拝に訪れる人は少数派で、今生きている人たちがよければそれでよい。話が逸れたが、高槻城の濠は500メートルほど離れている芥川から水を引いたのであろう。今日の最初の写真は高槻城主初代の永井直清を祀る永井神社で9代目が創建した。鳥居の奥に見える唐門は11代目が入城200年記念として造ったが、21世紀に入って修復された。唐門の奥に拝殿、本殿がある。2枚目の写真は境内中央の野見神社拝殿で、説明は次回に。