「
栃の木に力入れては励まされ」。関東についてはどの県がどう隣り合っているかよくわからず、栃木の土地勘はない。早とちりかもしれないが、栃の木が多い土地柄であるのだろう。

だがその栃の木がどういうものか知らず、なおさら栃木県に馴染みがない。それで冒頭の句をひねり出した。これは幕下の力士が太い栃の木に向かって突っ張りの稽古をしている様子だ。「栃」から「木」を外して「力」を入れると「励」の漢字になることから思いついた。こういう意識の工事を経て作品が生まれる。先日少し書いたようにエウヘーニオ・ドールスは建築、彫刻、絵画、詩、音楽の順に芸術を格付けし、形あるもので最も大きな建築を人間による造形において最重視する。どの美術史に関する本でもそうで、ギリシアやローマの美術でもまずは建築、そして彫刻、絵画と章立てされている。そのことを思うと、日本の美術は大きな変化に晒されていることを思う。いかにも昭和という建物がどんどん消えて、どの街でも大工や左官、瓦職人を必要としない短期間で組み立てられる建売住宅が並ぶ。普通の人はそういう家に住むしか選択肢がなく、その家の中に何があるのか誰でも想像出来る。家がまずそのような陰影の乏しい画一的なものになると、その内部に収まるべき彫刻や絵画がどのようなものかは誰でも想像出来る。彫刻は大きなぬいぐるみやキャラクター・グッズ、絵画はポスターやカレンダー、液晶TVだ。そんな時代にふさわしい芸術作品とはどういうものかとなれば、芸術家が美術館でしか展示出来ないものを目指すのは無理もない。そして美術館に行かない限り、芸術作品に触れることがないから、ますます芸術は生活から乖離する。芸術とはもともとそういうものであると考えることも出来るが、キリスト教の教会に人々が集まり、その内部の彫刻や絵画を眺めていた時代が庶民にとって最も芸術が身近でしかも幸福であったと言え、時代が進むにつれて何事も進歩するとは限らないことを思う。それを認めたくない人は、今は誰でも自由に絵を描き、音楽を奏でることが出来るので、却って芸術は卑近になったと主張するだろう。確かにそうかもしれないが、そうした自由の個人が作り出す作品が庶民の家の中で歓迎されるかと言えば、味気ない建売住宅にはそのための壁面の余裕がほとんどないだろう。そういう新築の家を見て思うことは、それが半世紀後には消えていることと、また個人の住宅は大昔からそのように消耗品であり続けて来たことだ。ならば、現代の建売住宅に似つかわしい作品を作ろうなどと考えなくてもよい。どうせ彼らの大半は芸術に関心はなく、あっても購入する経済的な余裕はない。そして、創作に燃える人は誰に対して何を表現するかという考えに迫られるが、自分に対しての呟きであってもいいではないか。

庶民の家が芸術とほとんど無縁のものであれば、人が多く集まる場所や建物に設置される作品がその時代の代表的芸術であると考えることも出来るが、それでは大規模な作品を作る人が優先されることになる。つまり大作だ。それは本当は形が大きいという意味ではないが、作品の大小に関係なく作家は同じように力を入れるから、やはり大きな作品は大作ということになる。では大作を作らない作家はそうでない作家より重要でないかとなれば、フェルメールには100号はなく、また数も少ない。それに銅版画家はもっと小さな作品を作る。そこで筆者が考えるのは、小さな作品をたくさん作って大作にすることだ。小さくても数が多ければそれは他の作家を寄せつけない存在になり得る。それで最近はあるアイデアが浮かび、それを実際に作ることもいいが、アイデアを残すだけでもいいかと一方では思っている。アイデアのみでは作品とは言えないが、筆者の頭の中では思い浮かべば後は作るだけで、その作る時間がもどかしく、作ったある1点が多くの作品を代表するとの思いがある。つまり、残りの作品は弟子がたくさんいる工房を抱えていれば制作出来るものであって、さほど重要でない。浮かんだアイデアを目に見える形として完成させた瞬間は確かに最もわくわくするが、その経験を重ねると、アイデアが浮かんだ時も同じように楽しい。そのアイデアがなければ続く制作が出来ず、一番大事なのはそのアイデアであるからだ。ただし、浮かんだアイデアは完全な、つまり完成した作品と全く同じ状態であるとは限らない。それで作ってみるが、そのヴァリエーションは頭の中でいくらでも作ることが出来る。アイデアから作品を作って来た筆者は、新しいアイデアが何より重要で、それを作品として他者の目に見えるようにするのは他者に見せたいからだ。不特定多数の他者のために創作し、その作品を個展や公募展で問うというのが作家の姿となっていて、それをして来た筆者だが、一方でその他者が筆者にとって意味を持つ存在であると考えている。個人のために制作することが不特定多数にも訴えるはずとの思いがあるからだ。これは一石二鳥を考えていることで、動機が不純と思われるかもしれないが、特定の誰か、不特定多数かに関係なく、作るのは自分であって、特定の誰かのために作ったとしてもそれがその人物に理解され、喜ばれるとは限らない。つまり、動機はどうであってもよく、作ろうとする熱意がどのように湧くかが大切だ。それはともかく、浮かんで来るアイデアを全部作品化する時間はなく、優先順位をつける。そして誰からも注文を受けていない状態での制作は、自分の楽しみのために作ることを前提に、特定の誰かを驚かせたい思いがあればなおやり甲斐がある。これは著作でも同じで、よく誰それに捧ぐとの献辞があるのは、その人に真っ先に読んでほしいからだろう。

さて、渡月橋付近の川底の工事にどう話をつなげよう。今日の4枚の写真は17日に撮った。重機が侵進入するために渡月橋南詰めから下流側の公園内に通じる坂道は4分の3ほどの幅が出入り禁止になった。今日の最初の写真の看板に「災害で傷んだ橋をなおしています」とあって、渡月橋の修復工事と思われるが、橋はそれを支える基礎も含めてのことで、実際はそれよりも川床の荒れをきれいにする工事だ。4枚目の写真は北詰めに近い橋の上から撮ったが、工事現場が桂川の南側4分の3ほどであることがわかる。渇水期なので水は少ないが、その流れを北端に誘導しながらの工事だ。では北側4分の1は手つかずのままになるのかと言えば、工事の進み具合を見なければわからない。災害復旧工事であるからには災害以前の状態に戻すかとなれば、それでは同じ規模の災害があればまた同じ被害を受けるから、そうならないような工夫が求められる。その工夫がよかったかどうかはまた同規模の災害がないことにはわからず、災害復旧は難しい問題だ。それは住宅にも言える。味気ない組み立て建売住宅が一般化して来たのは大震災を経たことも大きな理由で、より安価でより安全を追求した結果だ。そこに美意識がほしいが、白っぽくて軽量に見えることは安っぽさではある一方、清潔で軽やかと思う人もあるだろう。そういう家が増えたことで雀が棲息に困るようになったが、雀の鳴き声がうるさく、糞も困ると言う人もいる。新しい時代の新しいものを歓迎する声は大きく、そしてそれは正当化される。渡月橋付近の災害復旧工事も、以前の状態に戻すのではなく、より安全を追求してのことだ。またどこかをいじれば別の箇所を手直しする必要が生じるから、今後も工事は際限なく続く。その様子は日本の庶民の家の見栄えが変化して行くことと同じで、昔と同じと思われている渡月橋やその付近の眺めも変わって来ている。そういう移ろいの中で自分の意識も気づかないうちに変化して来ているだろう。筆者は常に何かに夢中になるものが必要で、また何かを作っていなければ落ち着かないが、夢中になって来たものや自分が作るものを概観すると、やはり変化して来ているだろう。こうしたブログにしてもそれなりに毎回工夫はしたいし、そのことが楽しい。その工夫が誰かに理解され、驚かせることがあればもっと楽しいが、なかなかそういう声は届いて来ない。もっとも、コメントを拒否設定しているからにはそれは当然だ。1か月前にコメント欄を一斉に閉じる方法があることを知ってそうしたが、書き込みに応対するストレスがなくなった。筆者は一方通行で何かを表現することに慣れている。人と交わることが嫌いというのではないが、顔を知らない相手とは親しくはなれない。そのあたりまえのことが、時代の流れによる人間性の変化か、今の若者はそうではなくなって来ている。