人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●大阪天満の音凪にて、健司・愛子・千恵
が掃き溜めに現われたと言えば少々おおげさだが、一度見れば忘れない顔の女性が筆者の眼前でベースを弾き続けた。彼女は筆者が座っていた場所から2メートルほど出入り口に近い場所に座っていたが、演奏者であることは知らなかった。



また目立つ顔ながら、下の瞼に翳りが目立って、年齢のせいというより、神経がきわめて細いことを思ったが、そういう彼女がベースを担当してどういう音楽が始まるのかとまず思わせられた。演奏の前に、本当はもうひとり加わった3人で演奏する予定が、インフルエンザで休むことになったと告げられた。筆者は3人組としての演奏は知らないので、演奏が始まる前に隣りのKさんに訊ねた。Kさんによれば、欠席したもうひとりは「千恵」という女性で、キーボードを主に演奏し、また歌も中心になって担当するとのことであった。ならばとても重要なひとりが欠けた演奏であったが、YOUTUBEを見ると、彼女が歌う曲は少し毛並みが変わっていて、「健司・愛子」のペアに「千恵」が加わったバンドではないかと想像する。そして「健司・愛子」のみでも充分に音楽性は保たれているように感じた。それはふたりがギターとベースを担当すると同時に歌いもするからだ。確かに音は3人よりも少ないが、元々静かな音楽であるから、ふたりの方が却って音楽性が露わになる。さらにKさん曰く、彼らはかつてライヴハウスで盛んに演奏していたある有名な男性の音楽から影響を受けているが、その始祖としての男性から多くの音楽家が育って広い裾野を形成しているとのことであった。ライヴハウスが生んだ音楽一派の歴史があることを知ったが、なるほどと思う一方、その始祖の男性が誰からの影響も受けずに登場したとは考えにくく、さらに遡ってどういう音楽の流れから登場したのかと興味が湧く。それはさておき、女性ふたりに男ひとりの3人組は、当日最初に演奏したグループと同じで、店はあえてそういう組み合わせを手配したかもしれないが、音楽性はかなり違う。「健司・愛子・千恵」としての活動が何年前からか知らないが、音楽性は圧倒的にまとまりがあり、また「健司・愛子」はエレクトリックのギターとベースであるから、フォーク畑よりもロックの色合いだ。ところが店では騒々しいロックの演奏は無理だ。ギターとベースも音はかなり控えめで、演奏はゆったりとして、またヴォーカルはささやき調に終始した。先月大阪のHARD RAINで見た悲しみかもめさんのライヴの感想を綴った際に言及したアメリカのバンド「ギャラクシー500」を想起させたが、ドラムスがないのでもっと静かだ。Kさんが言う始祖としての日本人男性がギャラクシー500の影響を受けたかどうかはわからないが、ギャラクシー500の活動期間は今から30年ほど前で、それは充分に影響を受けそれを咀嚼出来る歳月だ。
 YOUTUBEで見る「健司・愛子・千恵」の演奏はどれも短調で、一言すれば「物悲しい」が、実演に接すると案外そうではない。ベースはなかなか小刻みに音を奏で、ギターは時々ソロを担当してそれがまたなかなかよい。かなりのテクニシャンで、ギター1本で情景を作ることに長けている。おそらくもっと大きな音でハード・ロックも演奏出来るだろう。ただし、彼のヴィジュアルはごく普通の趣味を持つサラリーマン風で、印象に薄い点が印象深い。肉づきが目立ち始めている年齢だが、いっそのこと巨漢になって髭を蓄えると貫禄が出て音楽も違うように聴かれるだろう。先に情景と書いたが、彼らの曲は日常の断片を切り取ってそのままぽんと提出するものと言ってよい。歌詞をほとんど聴き取らずに音に浸ったのでそれは直観だが、即席かどうか、「千恵」さんが欠席したことを歌詞にした曲を確か最初に歌い、その歌詞がほとんど短い1行の繰り返しで、尻切れトンボを感じさせた。起承転結があるのではなく、ある状態をそのまま描き、そしてそこに一種の超現実を感じさせる。それは別に珍しいことではないが、ギターでさまざまなメロディを断片的に織り交ぜながら、感情を込めずにぼそぼそと歌われるので、余韻といったものが濃厚に漂う。それを意図した音楽性を追求しているのだろう。これは投げやり調が聴き手に深読みさせる点で演奏者には楽だ。またそういうけだるい音楽が求められるとすれば、それは時代を反映してもいるだろう。以前書いたように筆者はギャラクシー500のCDをほとんど聴かなかった。それはたとえがよくないかもしれないが、多彩であったビートルズのごく一面を拡大した音楽で、その末端肥大症とでも言うべき音楽への取り組みは、音楽の本道とは思えないからだ。だが、ギャラクシー500の対局に騒々しいロックをやる連中がいて、ビートルズ以降はポップスが細分化した。ついでに言えばザッパ当初からは総合化を旨としていた。細分化は熱心なファンを獲得しやすい。それはどの曲も似ていて、すぐに当該の音楽家の魅力がわかるからだ。ザッパのように作品数が膨大であらゆる音楽性を飲み込んだ存在は、あまりに茫洋として今の若い音楽家には手に負いにくい。それには別の理由もある。ザッパは技術的にきわめて巧みであったから、模倣する気を起こす人は少ない。その点、ギャラクシー500であれば、「これならすぐに真似出来る」と思う人が少なくないはずだ。金森幹夫さんは、ギター片手に歌う若い女性が今はいっぱいいるとのことで、それはギターが安価で、コードを少し覚えればそれなりに歌えるからだ。そういう音楽にも個性が宿り得るところが音楽の面白さだが、音楽を痩せ細ったものにしたくないのであれば、初歩に甘んじていいはずがない。ところが、今は痩せ細った音楽に固執し続けてそれを独特の個性とする方法もあると考える者がいるだろう。
 YOUTUBEでは「千恵」さんが最もよく歌うようで、また「愛子」さんの声はか細く、あまり得意としていないことが伝わる。16日に彼女は1曲だけベースを弾きながら歌ったが、歌い始めの音程を間違ったのか、バツの悪そうな笑顔を浮かべて二度歌い直した。プロとしてはかなりまずいが、そういうミスが愛嬌として許されてしまうところが彼らの演奏の持ち味でもあるだろう。つまり、物悲しそうなメロディの演奏でどれほど悲惨な人生を歩んでいるのかと思われかねない一方で、それはあくまでも作品の中だけのことで、普段は冗談も言い、冷静に自分たちの音楽を見ていると思わせる。そのことは前述したようにぶっきらぼうとも言える歌詞に表われているし、またそれは余裕であって、人生の楽しみとして人前で演奏していることが伝わる。それは平たく言えば趣味ということだが、ライヴハウスで活動する音楽家は演奏を趣味と捉えている場合が少なくないだろう。音楽だけで食べて行くことは並大抵ではなく、大多数の人は収入のための別の仕事を持つ。そういう音楽家の作品を過小評価することはよくなく、彼らの中にはいつでも多くの人に知られてよい演奏をする者がいる。また、全員がメジャーになりたがっているかとなればこれはわからない。有名になるに越したことはなくても、まずは存分に表現が出来るかどうかで、それが保証されなければメジャーになっても仕方がないだろう。つまり、自分が大いに楽しみたいのが本音ではないか。音楽を奏でることは「PLAY」で、これは「遊び」の意味もある。昨日はビートルズの「DEAR PRUDENCE」について触れたが、書き足りなかったことを以下に記す。同曲の歌詞に、「遊びに来ないか?」という下りがある。筆者はこの「ディア・プルーデンス」を「ホモ・ルーデンス」に置き換えてみる。ホイジンガの著作の題名「ホモ・ルーデンス」は「遊ぶ人」の意味だ。ジョン・レノンはヨーコ・オノからそのことを知って「ディア・プルーデンス」を書いたかもしれない。「用心深さ」の意味の「プルーデンス」は、女性の名前として使われる場合は「貞淑」の意味を込めてのことだ。そういう女性に出て来て遊ばないかと誘う歌詞は、かなりいかがわしいか言えば、女性を陽が輝く空や鳥のさえずり、雲の連なりやかすかな風などにたとえ、またそういった美しい自然を見回すことを促し、隠微なところは微塵も感じさせない。彼女を遊びに誘うのはそういう明るい外気に触れることの勧めで、その思いをジョンは遊びとしての曲に仕立てて演奏した。「PLAY」を二重の意味で体現する音楽家の生き方に賛同して同じように遊びの思いに浸るには、本当は自ら楽器を奏でたり歌ったりすることが最適だが、それがかなわない人は生きることとの本質としての遊びがあることを音楽から自覚することだ。
by uuuzen | 2019-02-23 23:59 | ●ライヴハウス瞥見記♪
●大阪天満の音凪にて、ニエリ エビタ >> << ●大ザッパ会@京都五条大宮PA...

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?