薔薇にたとえられるような美女は思いつかない。筆者はニエリエビタさんと最初に会った日に鶏頭の花を連想した。彼女はその思いに首をかしげたであろう。
鶏頭の花は花とは呼びにくく、またどこか鄙びた印象があるが、多彩な色合いや不思議な形は彼女らしいと直感した。彼女はシンガーソングライターを自称し、TWITTERのプロフィールにあるように、作詞と作曲、編曲、それに自ら歌う。そのどれもが個性的であれば無敵だ。彼女の曲はいくつかの大きな特徴があり、それが今後より多彩に発展するのか、あるいは似た曲を量産するのか、今のところ予想はつかない。彼女について先月HARD RAINでの演奏を取り上げたが、今日は別の角度から書く。さて、HARD RAINで演奏した悲しみかもめさんについて投稿した際、ジョン・レノンの「#9 ドリーム」について少し書いた。その時に加工した画像を今日は使う。その曲の歌詞は脚韻がありつつ、それを破るオノマトペと思しき下りがある。画像の黄色で囲った箇所だ。ニエリエビタさんは歌詞にオノマトペをよく使う。それは韻を踏まない彼女の歌詞でかなり目立つ。たとえば12小節のブルースでは歌詞は韻を踏みやすいが、彼女の作詞は小節数を厳格に決めないこともあって曲は覚えにくい。それをあえて行なっているのか、あるいは韻律を考えるのが苦手なのかは知らない。鶯の鳴き声はある意味では韻律で、彼らはそれによって重要なことを伝達し合っている。五言絶句や七言絶句などは、ごく限られた字数でしかも韻律を使うことで詩人は定型の中で個性を発揮し、千年以上も人々に記憶され、読み手に同じ感情を惹起させる。お経も同様だ。韻律は言葉で表現したことを長らく伝達するのに最も効果的だ。それゆえ、歌も韻律を使うが、模倣丸出しのあまりに単純な頭韻や脚韻は逆効果で、今は親父ギャグと思われやすい。そういう作詞は若者の安っぽい曲にいくらでもあって、韻律を使うと曲を覚えてもらいやすいことを知っての見え透いた策略だ。とはいえ、詩の基礎は古今東西、韻律だ。それを踏まえたうえで作詞することが望ましい。その意味でニエリエビタさんの書く詞は記憶に残りにくく、また不思議な印象がつきまとう。つまり、韻を踏むかどうかは一長一短だが、彼女の詩はソネットの伝統を継ぐものではなく、次から次へとメロディが漂って行くシンフォニーの小規模なものに近い。そうであるから筆者は彼女の曲はギター1本の伴奏ではなく、もっと多くのさまざまな楽器の、しかもいくつものの編成で響かせたい気がしている。確かに彼女の曲は60年代のポップスのように2分35秒に収まらず、その倍近いものがほとんどだ。これはどこかを削って短くする余地があるかと言えば、リフレインが長過ぎるということでもなく、饒舌な部分はない。

1か月ほど前、
シューベルトの『冬の旅』の冒頭曲「おやすみ」を口ずさんで歩きながら、ハンス・ツェンダーが『冬の旅』を管弦楽曲に編曲したヴァージョンも思い浮かべた。シューベルトがそれを聴くとどう思うだろう。『冬の旅』の詩は定型で、その韻律に合わせてシューベルトはピアノ伴奏や歌のメロディを書いたから、ツェンダーの過剰とも言える編曲はよけいなことと断じたであろう。シューベルトは交響曲も書いたが、詩を使わない交響曲では詩に従属する必要がなく、メロディを自由に紡ぐことが出来た。もちろんそこにはたとえばソナタ形式など、一定の約束事としてがあって、それが冗漫に流れることを防いでくれた。話を戻して、ニエリエビタさんの歌詞に登場するオノマトペは韻律の観点からは異物だ。またその効果によって曲を印象づけているが、そのオノマトペの部分は別の意味が通る言葉であってもかまわないようなメロディになっている。そのことは彼女にとって誰にも意味が把握出来る言葉とオノマトペが同じ比重を持っていることを意味するだろう。もっと言えば、歌詞のすべてがオノマトペになり得るから、歌詞よりも言葉の音に重きが置かれていると考えることも出来る。つまり、歌詞の意味はさほど重要ではなく、楽器の音色や言葉の音の重層性を楽しんでいる。それは歌詞がフィクションであり、個人的な経験がその奥に隠されているとしても、それは聴き手にはほとんど把握出来ない。あるいは自由な想像が許されている。では彼女の詞の世界が虚飾かと言えば、そうとは限らず、またそうとは感じさせない。彼女は何らかの経験に基づいて作詞するはずだが、たとえばある人に対しての恋愛や失恋が根本にあれば、その曲を歌うたびにその過去を思い出すことになるだろう。それはなかなか耐え難いことで、そういう個人的な経験をある意味では超えたところで曲を書いているはずだ。その作品との距離の取り方が一種の余裕となって作品の質を高める。『冬の旅』も同じだ。それはシューベルトの作詞ではなく、またかなりの凡庸な詩であるにもかかわらず、永遠の名作となっている。韻律に戻ると、筆者は彼女がもっと韻律を多用した定型詩を書き、それに作曲すれば、作品の世界がどのように広がるかを思っている。それはそういう短い、またわかりやすくて覚えやすい曲を、たとえば10曲程度書いて、『冬の旅』のようにアルバム1枚で組曲を形成すれば、彼女のシンフォニー的な作曲への思いが満たされる気がするからだ。そういうシンガーソングライターとして、筆者はたとえばニルソンの初期を思うが、前にも書いたように、筆者は彼女が誰の曲を好んで聴いて来たかを皆目知らない。また彼女はライヴハウスで知る他の音楽家から感化を受けるか、また受けないほどに意思が強いのかを知らないが、尊敬することはあっても影響は受けないに違いない。

当日の演奏曲は、1「扉を開けたのは誰だい?」、2「明かりのそばで」、3「虹のかけら」、4「ホログラム」、5「風」、6「ホログラム」で、前回と同様、彼女は宣伝用にCDを持参した。そして初CDを紹介しながら、「怖いものみたさで(いかがですか?)……」と言った。録音当時の声を今ではあまり気に入っていないからだが、そのアニメのような独特の声色は歌詞の世界を非現実的なものとするのに効果的で、たとえば別れについての詞でも作り話として安心して聴くことが出来る。生々しさの排除は彼女のこだわりのはずで、またそのように自作曲を彩ることは、人に触れられたくない何か特別の経験があるのかと詮索したくなるが、もちろん彼女はそれを公にせず、筆者も彼女の生い立ちや過去について何も訊いていない。経験や現状が厳しくても、強い意思や矜持があれば、創作はそれを感じさせないものになる。創作は実生活から生まれるものだが、実生活を超えた境地を表現が出来る。それゆえに尊く、また作者より長生きする。ところで、「明かりのそばで」の途中、初めて聴く歌詞が2行あることに気づいた。演奏後に訊ねると、彼女はたまにそのように特別に挿入すると言った。それは曲を融通無碍なものとして考えていることであり、また過去の曲を同じようには歌わないことは、生活や気分の変化の影響として、詞が韻律に縛られていないことが前提になる。彼女が韻律から自由でありたいと思っているとすれば、そのことは彼女の曲が、特に編曲の点で自在に変容可能であると筆者に思わせる理由を説明しそうだ。ジョン・レノンに戻ると、ビートルズ時代の「DEAR PRUDENCE」はギター1本で歌うデモ・ヴァージョンがあって、そのフォーク調の曲が後にどのような楽器でどう彩られてホワイト・アルバムに収録されたかがわかる。ニエリエビタさんがギター1本で歌う場合は、いわばそのジョンの曲の初期ヴァージョンだが、彼女のCDを聴かない人はそこに音が足りないと思うだろうか。それは人によりけりとして、彼女は作曲段階で多彩な音色を念頭に置いているはずで、その意味から彼女はフォーク歌手ではなく、基本となる素朴な何かの上に新機軸を発揮したいと考える作家だ。その点において筆者の友禅染と大いに共通する。大阪の学者の富永仲基は「加上」という考え方によって数多い仏典がどの順序で生まれて来たかを分析したが、筆者がビートルズで学んだこともそれと同じで、ビートルズは初期から新しい何かを絶えず加え続けて新作を発表した。そして「DEAR PRUDENCE」はフォーク調に基づきながら他のビートルズ曲にない編曲の絶妙さを見せている。ニエリエビタさんのライヴに接すると、CDとの比較が面白いこととは別に、CDヴァージョンを更新しようとしていることもわかる。それは自作からも自由であろうとすることで、彼女を捉えることは難しい。