囲いからどう逃げたのか、東京で飼われていたミミズクが街中を飛び回り、夕方になって死んだと報じられた。ペットが野生になることは危険が伴なう。人間も同じだ。
ザッパが書いていた。親から離れて社会にひとりで出るのは、周囲に危険な男たちがいて恐怖を覚えるというのだ。それは今の日本でも同じであるにもかかわらず、ころりと騙される若い女性がいて、性を売る身分に落ちることもあるという。もうたいていのニュースに驚かないが、そうなると世間はもっと強い刺激を求める。その一例が角矢胡桃さんのノイズ音楽と思わないでもないが、音楽は人間が作り、人間は社会の一員であるからには、そういう音楽は社会の何かを反映している。筆者は現在の社会とたとえばライヴハウスで活動する音楽家の作品を結びつけて何かを考えたいとは思わないが、ポップスは世の中の動きを強く反映する。またそこにポップスを聴く楽しみがあるから、世間の流行をネットで知ろうとはしている。ただし、どうでもいいことや嫌悪することが多く、またそういう浮世離れした者が創作行為をする場合も多々あって、作品は作品のみで味わいたいとも思う。社会におけるどうでもいいことや嫌悪することは、今に始まったことではないが、前述のように刺激が強まって来ている実感はある。その刺激に敏感に反応するか、ほどほどか、あるいは無視するかで、音楽家たちの作品が変化に富む。つまり、角矢胡桃さんと旧こいけさんの作品を並置して、双方は正反対でいて裏表を成していると感じる。ノイズ音楽は今に始まったことではないが、今やることは今の何かを象徴している。それは旧こいけさんのレトロ調の曲にも言える。そうなると、昔に経験して知っていると思うのは早計ということだ。
14日に筆者はガーナ・チョコは昔から味を知っているので、わざわざ買う気がしないと書いたが、15日に精華大で金森幹夫さんが角矢さんに会った時、金森さんは彼女がTWITTERか何かにチョコレートがほしいとか書いていたのを読んだと言いながら、彼女にガーナ・チョコを1箱プレゼントしたのを見た。赤ではなく、黄色のパッケージで、筆者はその味を知らないので買ってみようと思った。そして2日後の日曜日に家内とスーパーに行った際にそれを見かけて買った。「焦がしミルク」と表示していることはなるほど新製品かと思ったが、味は昔の赤いパッケージのものとそう変わらない。そこで今日は物は試しとばかりに白箱を買った。箱は黄色のものより5ミリほど高さが低く、中身も5グラム少ない45グラムだ。味は予想どおりで、新時代の新商品に少々幻滅したが、しょせん100円程度の商品だ。また昔の赤のみではなく、いろんなパッケージの色で味のヴァリエーションを発売するのは刺激の多様化の反映だ。何事も囲いをちょこっとちょこちょこ破って別の新しいものを生み出す宿命にある。