島と大陸の差はもちろん大きさだが、島に大がつかず、大陸だけにつくのはおかしい。島はとても小さなものから巨大なものまであって、グリーンランドは大陸のように大きいので大島と呼ぶべきだ。

何が言いたいかと言えば、島をひとくくりにせずに、大陸並みに大きなものとそうでないものをどこかで線引きして名称を変えればいいということだ。島国の日本だが、本州で暮らしていると、大陸とどう違うか実感がなく、けっこう広いと思う。その大部分に訪れたことがなく、陸の孤島的生活をしているからだ。孤島と言えば無人島で暮らさねばならないとして、何かひとつ持って行っていいとされるのであれば何がいいかという問いが昔からある。その無人島がどのくらいの大きさかと言えば、漫画ではだいたい人間の数倍まで、それでは暮らせないが、孤島であることを示すのは誇張するしかない。もうひとつの疑問は、食べ物がどうにかあるとして、暇つぶしに何かひとつを持って行くのかということだが、そもそもその質問は非現実的で、監獄に入るとして、何かひとつ持って入ることが許されるとすればという質問と思えばよい。ところがこれもある人は脱獄するための金鋸と言うであろうから、さらに質問を変えると、陸の孤島のような生活をしている時、何かひとつだけ余暇を楽しむものを持つことが許されるとしてそれが何かと考えればよい。筆者が求めるのは梅の木だ。二本許されるならば紅白だ。梅の木は実が出来るし、花も美しく香りもよい。わが家には自分で植えた紅白の梅があって、陸の孤島的生活の中、ここ1か月は毎日その花を愛でている。とはいえ、その紅梅のすぐ近くに雀の餌用のカップを置いていて、それを毎朝台所に持ち帰り、餌をいっぱい詰めてまた同じ場所に紐で固定するその2回しかほとんど見ない。それでも紅白の梅に20羽ほどの雀が餌に狂喜して飛び交うのは、まるで動く絵を見るように楽しい。光琳の国宝『紅白梅図屏風』は中央に流水が描かれるが、わが家の梅も小川沿いにあって、そこに雀もいるので、光琳の屏風の世界以上に春らしい要素が多い。光琳のその屏風に多くの雀を描き足すと、やはりあまり面白いものにならず、せいぜい数羽の鶯がいいが、光琳はなぜそれを描かなかったのだろう。紅白の梅が対になっているところに鶯を描くとややこしく、代わりに画面中央に流水を描いたのだろう。あまり要素が多いと初春の感じがしない。筆者が梅を好むのは、梅の咲く季節が好きであるからだ。光琳のその屏風も紅白の梅よりも春先の空間、つまり空気を表現したかったのだろう。この「間」というのは日本美術の本質で、音楽にも文章にも欠かせない。ところが、戦後はそういう見方が受け継がれているとは言い難い気がする。筆者もそうであるかもしれない。筆者の文章は長めで、手紙は文字がびっしりで隙間がない。これは隙を見せたくないというのではなく、貧乏性だ。

昨日載せた筆者のキモノ「遊蝶花に蝶遊ぶ」は、図版からはわかりにくいが、蝶が飛んでいる空間に青の細い曲線を何本か引いている。これは風のつもりで、「間」として設けた空間に蝶の動きを感じさせるための細い線を引いた。専門的な話になるが、その線は写し糊の技法により、青線の内部に地色の黄色は入っていない。あたりまえのことで、青に黄を重ねると緑になる。つまり、黄色を染めた後に筆で青の染料をつけて描いたのではなく、防染技法を使っている。意味不明と思われることを書いているが、言いたいことは、表現したいことに合わせて実験的かつ斬新な技法を併用したということだ。その斬新な技法は友禅の基本から大きくはみ出るものではなく、また工程を省くために開発されたような新しい薬品などを使わない。筆者の友禅染の作品はほとんどすべてその考えに基づいている。それは通常の古典的な友禅に基づきながら、それを技法的かつ文様的に進めたもので、また通常の友禅よりはるかに手間を要する複雑なもので、長年の経験のある友禅作家でもどのように染めたかはおそらくわからない。仮にわかっても、染める絵画とその技法の親和性は筆者独自のもので、模倣は困難であり、また模倣してもほとんど意味ある作品にはなりにくい。こうして書きながら筆者が思っていることは音楽だ。これまでになかった技法で作曲すれば必ず評価されるかと言えば、斬新さはいつか誰かに評価されるとしても、その作品が多くの人に愛されるかどうかはわからない。また、技術的斬新さが音楽で可能かどうかだ。古典的な楽器を用いて作曲すると、どういう音色が鳴るかはもうわかっている。そうなると音階や音程の斬新さに向かうしかないが、それもあらゆるものが試され、斬新さと呼べるものはただ受け手側の知識の乏しさゆえということになる。それで、たとえばAIの能力がもっと巨大化した時、ある新人音楽家の作品をどう評価するかを考えると、あらゆる面でかつてあったものをつぎはぎしただけの模倣作と評価するだろう。AIに訊かずとも、たいていの音楽ファンは音楽における斬新な個性の表現はどのように可能であるかと思っている。そしてやはり個性は歴然とあって、今までに聞いたことのない声、また見たことのない姿や顔といった、AIがおそらく最も苦手とする分類が不可能な人間的な要素が生まれ続ける。それは簡単に言えば唯一無二だ。ただし、その差はほとんどの場合ごくわずかだ。それを前提にAIは個人の情報を膨大に集めて分析するが、同じ人間がいないからには、AIの能力はいつまで経っても未完成で、結局のところ人間の方が優位に立ち続ける。では、誰もが唯一無二であるからには、全員が唯一無二の作品を作ることが出来るかと言えば、そのとおりだが、大多数はどんぐりの背比べで、芸術的に優れたものとはならない。

そこで問題は振り出しに戻る。音楽を作るとして、今までにない美女が今までにはない声で歌えば、それはそれなりに大いに歓迎されるが、歴史に残る作品というのは今までにない技法が優先される。それは今までになかった思想によって、また今までになかった音をどのように構築するかという作曲能力だ。大作曲家と呼ばれる人はみなそういう作品を作って来た。その延長上に何がどう可能かを今この瞬間も考えている人は世界にたくさんいる。それは現代音楽と呼ばれるジャンルのことだが、ポピュラー界では前述のように歌手の声や演奏者の見栄えが重視される分、音楽とは本来関係ない要素が物を言う。ただしそう断言すれば話がおかしくなるのであって、ポピュラー音楽では声や見栄えが音楽の要素なのだ。そして、声も見栄えも唯一無二であるから、各音楽家にはそれなりのファンがつくが、声はまだしも、見栄えは文学や美術とは異なって虚飾が混じりやすい。エウヘニーオ・ドールスは建築、彫刻、絵画、詩、音楽の順に芸術を階層づけたが、その音楽が古典音楽とそれに連なる現代音楽のみを指すのか、あるいはポピュラー音楽も含むかとなれば、おそらく前者だ。そうなればポピュラー音楽は芸術ではなく、芸能つまりエンターテインメントとすべきであろう。ザッパが自作曲をそう呼んだのは正直かつ客観的であった。ポピュラー音楽で有名になろうとする者たちが、古典音楽や現代音楽における純粋な造形性の変革にどれほど関心を抱くかと言えば、それは望むのが無茶と言うべきだろう。ではそのような音楽の歴史に詳しくなく、また興味もない者がポピュラー音楽に挑むとして、何が大きくものを言うかとなれば、声や見栄えの独特な魅力がかなりの要素を占める。一方でそれらにあまり恵まれない者が、自分たちの音楽を聴いてほしいと訴えても、現実は厳しい。また声や見栄えがかなりよくても、後者は年齢に左右され、新しくもてはやされる人が必ず出現する。それがポピュラーの宿命であるから、それをわかったうえで絶えず新人が出て来るのは、「あの人のようなことは自分でも出来る」という自信と自分の才能を試したいことと、ポピュラー音楽にもそれなりの歴史があるからだ。とはいえ、経済力が大きく物を言い、「有名」の旗印の下、小さな孤島のような音楽家は熾烈な競争に晒される。梅の話から友禅、音楽に脱線したが、昨日と今日は若い音楽家の演奏に接し、その感想をブログに書こうとあれこれ考えているからだ。その序として、また気分を高めるために書いた。さて、今日の写真は裏庭の向こうの孤島のような狭い土地に咲く紅白梅で、最初の2枚が先月17日、残り2枚は今日神戸に出かける前の昼頃に撮った。1か月の間、ゆっくりと開花して来たことがわかる。筆者の撮影位置の足元は雀の白い糞でいっぱいだが、雨がいよいよ多い季節になって来ているので、すぐに地面に溶け込むだろう。