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●神社の造形―新宮神社
み始めた寒さと言うにはまだ早いかもしれないが、筆者は今時分の季節が一番好きだ。裏庭に紅白の梅が咲き揃い、苗木を買ってもう7年ほどになったのか、とても華やかだ。



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筆者が願ったとおりの眺めが出来上がり、ひとつの願いを成就するのにその程度の年月が必要なことを思う。さて、節分を過ぎると気分的にも忙しくなるが、実際用事も増える。3日前は母を見舞うために家内と病院に行ったが、受付でインフルエンザの影響から2,3日は面会出来ないと言われた。母がそれに罹ったのではなく、外部と遮断して病院内に伝染させないためだ。仕方なくそのまま帰ったが、車を運転しない筆者は市バスを乗り継いでのことで、2,3日後にまた訪れる気になかなかなれない。それに15日は母は自分が住んでいた家に一時帰宅し、その日に筆者は母の家に行くことに決めているので、次に病院に行くのはたぶん月末だ。車を毎日運転する者は筆者よりも動きやすいだろうと、もしもふたりの妹に言えば、母を見舞うのに自家用車も市バスも差はなく、気持ちの問題で、しかも車でもわざわざ出かける億劫さは市バスを利用するのと同じだと主張するだろう。そう言われることが目に見えているので、筆者は車と市バスの差は言わない。それに市バスを使わずにタクシーを使えばいいではないかと言われるし、母のことに関して金を出し惜しみするなと陰口も叩かれかねない。経済格差の問題を持ち出すと話がまたややこしくなるが、たとえば年収100万の者が10万出すことと、1億稼ぐ人が10万出すことの気分的な差は現実としてあり、兄弟間で親の面倒を見ることに関しての経済的負担の平等性はいちがいに言えない。それに親がまともな判断を下せる場合、100万しか稼がない子どもに10万を負担させるだろうか。筆者が親なら1億稼ぐ子に全額出させ、またそのことで収入の少ない子に気まずい思いをさせないように心配りをする。ところがそういう理想的な光景はめったになく、またそれは貧乏人の甘えだ。同じ10万を負担するにしても1億稼ぐ者の勝ち誇ったような態度を無言のまま受け入れるしかなく、それが悔しかったら稼いでみろと言われるのが落ちだ。貧富の差はいつの時代もあるが、金の貧富ではなしに、心のそれもあることを知らない金持ちがあまりに多い。その一方で読み終えたルナンの『思い出』の最後に彼が掲げる4つの自戒のうちの最初の「清貧」の文章を想起しつつ、胸を張って裏庭の紅白梅の香りを嗅ぐ自分の姿を思い浮かべる。生きることは試練の連続で、どんな嫌なことがあってもなるべく笑顔を絶やさずにいるべきだ。そうでなければ金のないことよりももっと深刻な、本当の病を抱える。それは馬鹿らしいことだ。そういうことがルナンの『思い出』に示唆されていて、筆者は慰められる。
●神社の造形―新宮神社_d0053294_13015056.jpg
 前回母の病院に行くのに、下りるバス停を4つほど間違った。そして九条通りを歩いていると今日の最初の写真の場所を通りがかった。6日は気になってその細い道の奥へ入った。するとすぐ右手に2枚目の写真のように小さな鳥居をたくさん貼りつけた神社があった。その小さな鳥居はよく「小便禁止」の表示として使われるものと同じに見えるが、市販されているのを見かけたことがある。石の鳥居の両側に66個ずつで、この数が何かを意味するのかどうか知らないが、神社として異色な存在感がある。前の道が狭いので車が通れないのであればグーグルのストリート・ヴューでは見られず、筆者の「神社の造形」のカテゴリーでは初の例外になる。なぜこのような狭い道に小さな神社があるのかだが、「新宮」という名前が気になる。この名前で連想するのは和歌山の新宮市や熊野詣だ。それと関係があるのか。そこで駒札の説明を読むと、この辺りの北側つまり九条河原町北一帯は、平安時代は藤原鎌足を祖とする藤原兼実が興した九条家の所有で、遠くからでも見える大木のある「新宮(しのみや)の森」と言われる屋敷があった。その森に当時流行した熊野信仰の関係から九条家が堂宇を建立した。祭神は春日大明神、稲荷大明神、速玉明神、八幡大明神で、地域の守護神となっていたが、明治12年に一村一社寺の行政命令が出て、同30年頃に九条家関白家の官邸跡である現在の地に堂宇を新たに建立した。昭和40年頃に神社法人の資格を得て、9月中旬に「例祭」、11月初旬に「火焚祭」が行なわれる。御利益は商売繁盛で、また家出人の行方を知り、帰宅させる「足止めの神」としてひそかに崇められていると書かれる。大邸宅はすっかり消えたが、その中にあった社はどこかに移そうということになり、九条通りからほんの少し下がった住宅地に定められた。明治時代は現在のように家が建て込んでいなかったはずで、境内はもう少し広かったのではないだろうか。明治30年頃から戦争を挟んで昭和40年になるまでの70年の間にこの付近はそうとう街並みが変化したが、商売繁盛の神となっているところ、もっぱら商人が住むようになったであろう。また行方不明の人云々というのは、それだけ人の出入りやまた浮き沈みをする貧しい人が多かったのではないか。「新宮」の名前が熊野信仰に関係するとの想像は正しく、となればこの神社からは東北1キロほどの去年訪れた新熊野神社との関係が気になるが、貴族が熊野詣を盛んに行なったことを思うにつけ、筆者も一度は熊野三山を訪れたいとの思いがまた湧き上がる。ひとつの願いを成就するには充分過ぎる年月が経っているのに、まだかなえていないことは多々ある。新宮市からは日本一距離の長い路線バスが走っていて、TVで何度か紹介された。金はないが暇は比較的見つけやすい筆者ならどういう方法で訪れるのが一番いいか。
●神社の造形―新宮神社_d0053294_13021222.jpg

by uuuzen | 2019-02-09 23:59 | ●神社の造形
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