凹んだ場所と言ってよいが、東本宮境内の東南角辺りで撮ったのが今日の最初の写真だ。これは「内御子社」と呼び、上中下の各七社に含まれない。

また東本宮境内は西本宮と違って楼門のある南側を除いた三方が塀で囲まれず、「内御子社」の北に位置する「二宮竈殿社」のすぐ右には石垣が迫っているが、内御子社の背後は林だ。またその数メートル後方のいかにも凹んだ場所に「悪王子社」と彫った高さ50センチほどの石が地面に立て置かれている。元は「樹下神社」の摂社だそうが、社はない。善王子ならいいが、悪王子は字面がよくない。それで拝まれなくなったのだろうが、大きな石を処分することは出来ず、境内の目立たない場所に置いているのだろう。悪王子社が内御子社の背後にあることは双方に関係があると思うが、内御子社の社はまだ新しく、またすぐ南に雄椰の神木があって、社は絶妙な位置にある。「内御子」は大山咋神の家族では子としての位置づけの「樹下若宮」と兄弟ではないか。「内」は「内孫」のそれで、男系の血のつながった子どもであろう。あるいはこれから生まれる子孫を意味し、「内御子社」は子孫が代々続いて行くようにと願う際の神ではないか。一方の悪王子社は神の子孫の中に悪さをするのがいることの象徴ではないか。そして人々はわが子が悪い行ないをしないようにとの願掛けをするために、悪王子社がかつてはあった、あるいは今も目立たない石としてあるのかもしれない。そうであれば、大山咋神はとても人間的だ。御利益とは金の話に結びつくだけではなく、心身の病など人々のいろんな悩みを払拭してくれることにもあるはずで、親を困らせる子どもが更生してくれるようにと願う人は昔も多かったであろう。とはいえ、悪王子社が目立つ場所に社としてあればそこにお参りする人は他者の目を気にする必要がある。それで現在のように知る人ぞ知る石としてひっそりとした場所にあるのは、昔からそうであったと考えることも出来る。また椰の木の近くにあるので、樹下神社に関連することは間違いなさそうだ。それはともかく、境内の東北に雌椰、東南に雄椰があって、二本の神木は縁結びや夫婦和合の象徴で、ほかの神社でもよく植えられている。山岳信仰、修験道の基礎を築いた「役の行者」にまつわる記録に登場し、樹齢千年以上の巨木もあるというが、日吉大社の木は楼門よりも高そうだが、幹の直径は巨木と呼ぶにはほど遠い。台風などで倒れれば同じ場所にまた植えるはずで、専属の造園業者が日々出入りしていると想像する。昨日書き忘れたが、境内にはもみじが3000本もあって、やはり秋の紅葉が見物のようで、大宮橋から山王鳥居、そして西本宮の楼門までが特にきれいとのことだ。近年京都嵐山の紅葉はさっぱり駄目だが、まだ日吉大社は俗化しておらず、空気も澄んで美しいだろう。

さて、時計回りに東本宮境内を巡ってまた楼門に戻った後は、南に続くなだらかな坂の参道を下って行くが、まず左手に受付の建物がある。そこで2枚目の写真の上のように神猿の土人形のおみくじが各500円で売られていた。買わずに写真だけ撮ったのはまずいが、何も言われなかった。現代的な造形で、青と赤の二色があって若者は喜ぶだろう。郷土玩具が好きな筆者はもっと古風な造形や色合いを好むが、今はそれでは売れないのかもしれない。筆者のような世代は歓迎しても、それでは売れる数は少ない。そこでいつの時代も金をよく使う若い世代の好みに合った商品を作る。老人はそれに渋い顔をするが、たまにはその現代風のよいところを評価しなければならない。このおみくじ入りの人形は内部に巻いた小さな紙を入れる必要上、どうしても人形の形はずんぐりして丸みを帯びる必要がある。そしてその条件ではどの動物を象っても「ゆるキャラ」を思わせる「かわいい」ものになる。戦前でもずんぐりむっくりした形の人形はあったが、土人形を流し込みの技術で量産するには凹凸が少なければ少ないほどよい。そのため、写真のような形になるのは仕方がない。ほんの少し形や色を変えるとほかの動物に転用可能で、特徴が少ないことが気になるが、今はそれが歓迎される時代だ。筆者には今時の美人もイケメンもみな同じ顔に見えるが、となればどの神社でも今はこういうものが売られているはずで、専門に作る業者があるのだろう。ところが、味気ないと思いながら数年先には違う形のものが売られている可能性があって、こうした新郷土玩具と呼ぶべき現代版の神社専属の土人形を集める収集家がいるだろう。そう言えば社寺の朱印を集めて回ることが流行中で、社寺はそれ専用の朱印帖を販売している。数千円する限定物もたくさんあって、朱印帖収集家がいるのだろう。グッズ販売に関して社寺が積極的であるのは美術館の売店と同じだ。わざわざ訪れたからには記念になるちょっとしたものがほしいという要望に応じてのことで、そこにも神社の造形の片鱗がうかがえる。さて、参道の両脇には小さな社が点在する。とにかく全部の社を撮影しようと思いながら、重要なものは撮り終え、また同じような小さな社を撮っても変化に乏しいと思ったこともあって、もう気力がかなり失せていた。それで楼門を出て左手にある「須賀社」に気づかず、その5メートルほど下の朱色で目立つ「巌瀧社」を撮った。それが今日の2枚目の写真の下だ。右側に苔の生えた大きな岩がある。そのために「巌瀧」と名づけられたのだろう。この岩は別の場所から運ばれたのか、元々あったのを取り除くのが面倒であったのか。岩は信仰の対象になるから、元からあって参道を造る際に邪魔になっても、有効利用しようと考えたのではないか。

大きな岩はもう少し下がったところにもある。同じく東側で御幣が巻かれている。かがみこむ猿の形をしていて「猿の霊石」を呼ばれる。これは「神猿さん 散策ガイド」の赤丸7となっている。猿に見えると言われればそうだが、そうであるからわざわざ現在の位置に持って来たのかとなれば、それは疑わしいが、この岩が参道を印象づける役割を持っていることは確かだ。ついで書くと、赤丸8は奥宮へと至るジグザグの山道の参道で「猿の馬場」と呼ぶ。今日の3枚目の写真は「猿の霊石」から少し下がった参道の右手で撮った。右の大きな社は「氏神神社」であろう。これは下七社のひとつで摂社だ。氏神は「鴨建角身命」と「琴御館宇志麿」で、前者は「かもたけつぬみのみこと」と読んで「鴨」は「賀茂」でもある。これは京都の鴨川や上賀茂神社、下鴨神社の「賀茂氏」のことだ。このことは一昨日書いた内藤湖南の「近畿地方における神社」にも書かれている。今では上賀茂神社や下鴨神社はとても大きな境内を誇るが、賀茂氏が勢力を拡大する以前は柊神社があった。それが今ではごく小さくなって隅に追いやられている。「琴御館宇志麿」は「ことのみたちうしまろ」と読み、西本宮の祭神「大己貴神」(おおなむちのかみ)を祀った神だ。「猿の霊石」側にも小さな社があるが、それは撮っていない。また名前もわからない。「散策ガイド」の赤丸は9が最後で、「「日吉山王垂迹神曼荼羅」の神猿」が紹介され、小さな図版でも3匹の猿が画面の最下段に確認出来る。8日の投稿に7年前の秋に滋賀県では3館合同の展覧会があり、大津歴史博物館では「日吉山王本地仏曼荼羅」や「日吉山王垂迹神曼荼羅」が展示されたと書いた。前者は本地としての仏像をたくさん描かれるのに対し、後者は建物の内部に多くの神が正面向きで何段にも並び、その一番下の階段辺りに神猿が一、二匹描かれる場合がある。猿であるからには人間の神とは同等ではないという扱いだ。「日吉山王十禅師曼荼羅」は前者に属するが、やはり猿は描かれ、いかめしい構成の曼荼羅図を庶民が見ても微笑ましいものにしている。神仏習合の様子が色濃く残り日吉大社だが、それは最澄の天台宗の教えが広まるとともに日本全国に3800もの分霊社が出来て行った経緯があり、また今も山王祭には比叡山の僧侶が参加するなど、神仏を分離することは不可能となっている。今日の4枚目の写真は往路で振り返って撮った。鳥居から100メートルほど西と思う。帰りも同じ道を歩いたが、写真の奥はJRの駅方面で、往路で撮ったように見える。この大通り北側の歩道の北側は寺が密集している。「伝教大師生誕……」を大きく横書きした額を掲げる建物があったが、大鳥居をくぐっても延暦寺の勢力は厳然と感じる。そしてそのことに違和感は全くなく、坂本の町は落ち着いて静かだ。それは凹んでいるのではない。なだらかな坂の町だ。