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●神社の造形―日吉大社、宇佐宮と白山宮
れるのにちょうどいい小さな社で、子どもが喜んでかくれんぼ遊びに興じるのではないかと思うが、入苑料を徴収する以前はきっと地元の子どもたちが境内を走り回っていたのではないだろうか。



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日吉大社の広大な境内に点在する社を片っ端から撮影しながらそんなことを考えた。天龍寺も半世紀前までは地元住民は自由に出入りしたと聞く。今はその裏手の竹林は外国人観光客で連日いっぱいだが、半世紀前は地元住民以外ほとんど人が通らず、天龍寺境内に自由に入れたそうだ。それが道路は舗装されて雨のぬかるみがなくなり、天龍寺は塀を巡らせて北にも門を作って、庭園に入るには料金を支払う。観光客が増えると儲かっていいが、境内の維持管理費が必要だ。観光客がきわめて少なかった時代は地元住民が経済面を支えていたとはいえ、それも限度があるから、境内は比較的荒れていたのではないか。だが、建物に深刻ないたずらをするような子どもはいなかったであろう。神仏にいたずらをすると祟りがあると大人たちから教えられていたからだが、それは今も同じであろう。金閣寺が焼けたのは子どものいたずらからではなく、また無教養の大人でも、外国人観光客のたばこの不始末からでもなく、若い僧侶による放火であった。そのことは仏教はその内部から崩壊して行くことの予兆と捉えることも案外出来るかもしれない。むしろ、一般人は子どもにしてよいこととそうでないことの区別を教え続けている。それは隠れて悪いことをすることを恥とする考えで、貧富の差は関係がない。社会的に地位の高くてもそういう恥ずかしい人がいて、たまに世間に恥晒しをする。かくれんぼの遊びはその点から考えてなかなか面白い。必ずどこかの物陰に隠れているのを見つける者と、見つからないように身を隠す者との知恵比べで、その役割を交換しながら遊ぶ。たまには見つからないまま終わることもあるが、子どもたちは見つかっても泣きわめきはしない。隠れることは見つかることであり、隠すことは見つけ出されることということを、遊びの中で覚えることは、日本独特の村社会における相互監視の反映とみなせるかもしれないが、みんなが隠し立てする必要のない社会を望んでのことと考えればどうか。となると、かくれんぼの遊びが日本独特かどうかが気になる。ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』は隣家に置いているので今調べられないが、かくれんぼは鬼ごっこと同類で、ミミクリ(擬態、模倣)よりもアゴン(競争)に近いだろう。それはともかく、かくれんぼをする子どもたちを見なくなったのは、「飛び出しボーヤ」の看板の登場と近いのではないか。つまり、道路で遊んでは危ないし、公園では隠れる場所がない。それに大きな寺社には無断で立ち入ることが出来なくなった。子ども野球チームに入ると金がかかるし、子どもたちが部屋にこもってTVゲームに興じるのは当然と言える。
●神社の造形―日吉大社、宇佐宮と白山宮_d0053294_00262106.jpg
 カイヨワがTVゲームを見てどのように位置づけるかはわからないが、ホイジンガが論じたように「遊びが文明をつくる」のではなく、今は「文明が遊びをつくる」ことは間違いがなさそうだ。何が言いたいかと言えば、TVゲームは創造的ではないということだ。ゲームを作った人の創造性の中から少しも出ない遊びのどこが面白いのだろう。小さな画面を凝視し、指先の技術で高得点を得ることの達成感は、仕組まれた中での限界以上に出ることはなく、そのゲームのみで閉じた空間で充足することだ。そこにはどのような創造性も生まれない。何をまた言いたいかと言えば、日吉大社に点在する末社を次々に見つけて撮影した間、筆者はその社の背後に子どもが隠れて遊ぶことを思い、その子どもが感じたであろう見つかるかどうかのスリルや、隠れている間に見た空や自分を探す友だち、また見つけられた子どの悲鳴と笑い声といったことなどを想像した。生活や遊びの中に自然があり、人間との触れ合いがあった。その双方を捨ててTVゲームに興じるようになった今、日吉大社は子どもたちにどういう意味を持っているかとも思う。たぶん大社の人たちも同感で、それでパンフレットに「神猿さん 散策ガイド」を載せる。だが、今は境内でかくれんぼをすることは許されない。無料で境内に入れる松尾大社にも摂社、末社はあるが、それらの社の上には監視カメラがあって、かくれんぼするなど言語道断と叱られる。話を戻すと、筆者はこうし手パソコンに向かって文章を綴ることをTVゲームとどう違うかを一方で考える。大きく違うのは、たとえば日吉大社を訪れた思い出を想起することは外を歩いて感じたことの反芻であり、また湧いその湧いた過程で疑問をネットで調べることは未知に対する知識欲であることだ。そしてそれらを合わせて言葉を連ねる行為が、カイヨワが分類した遊びの4つの典型のどれに最も近いかとなれば、ミミクリでもアゴンでもなく、またアレア(運)やイリンクス(めまい)でもなく、遊びとは言えないことになる。ブログの訪問者数を気にすることがなく、誰かに読んでもらいためではなく、収入に結びつくこともないが、自分のような者がネットの世界では少数派である現実を面白がり、また書くことが楽しいとなれば、筆者にとっては遊びにほかならない。それは完全なる自己満足だが、それを言えば子どもの遊びはすべてそうだ。ただし、筆者のブログ遊びが子どもの遊びと違うのは、非生産的ではないとは限らないことだ。そこに一抹の大人のいやらしさが入り込みやすいが、筆者は取り立てて自分の文章を宣伝していない。そして収入にならず、訪問者数を気にしないことは、子どもの遊びと同じく、非生産的だ。非生産性が大きい限りは、子どものように純粋でいられる可能性が大きい。筆者がたとえば有名なブログを読まないのは、そこに純粋性をあまり感じないからだ。
●神社の造形―日吉大社、宇佐宮と白山宮_d0053294_00264285.jpg さて、本題に入る。その前に昨日の3枚目の写真を説明する。西本宮の東の塀中央ら出ると下七社に属する大宮竈殿社がある。宇佐宮本殿のすぐ際にあるので上七社かと思えば、立地は関係ないようだ。「竈殿」は「へついどの」と読み、これは奥津彦神と奥津姫神という竈の神を祀る。本地は大日如来で、えらく立派なのが不思議だが、それほど火を使って米を炊くなどの台所仕事が古代は重視されていた。それにしてはもっと大きな社であっていい気がするが、家に対しての竈となれば、ちょうどこのくらいの大きさがよい。「大宮」の由来は昨日書いたように、西本宮の祭神の大己貴神が大山咋神より上位であるとされて「大宮」と呼ぶことに倣ったもののはずだ。つまり、大宮竈殿社は西本宮の塀の外にあるが、西本宮に所属すべきものだ。近くを流れる大宮川も西本宮の祭神に沿った名称であろう。東本宮でも竈の神を祀り、その社は同じ祭神を祀って二宮竈殿社と呼ばれるので、「大宮」はそれより大きなという意味でもある。今日の最初の写真は宇佐宮の本殿で、南にある拝殿は撮影しなかった。宇佐宮や白山宮は西本宮と同じ形をしているが、これは前と側面に庇がついた日吉大社独自の「日吉造り」と呼ばれるもので、ともに重文に指定される。西本宮と同じく宇佐宮を斜めから撮ったのは、真正面からでは全体が収まらないからだ。2枚目の写真の白山宮は少し小振りで、正面は三間だ。宇佐宮は両側に一間ずつ多く、これは祭神の位の上下によるのだろうか。WIKIPEDIAによれが宇佐宮は田心姫神を祀り、本地は阿弥陀如来、白山宮は白山姫神を祀って本地は十一面観音となっているので、やはりそうかもしれないが、竈社が大日如来であるからには社の大きは関係ないだろう。それはともかく、西本宮を見た後、すぐにこれらふたつの本殿を仰ぐと、その貫禄に圧倒される。古さと華麗な形がそう感じさせるのだが、形は信長時代に焼ける以前からのものをおそらく踏襲しているはずで、また建っている位置もそうだろう。宇佐宮は八幡宮で武士の信仰が篤く、秀吉が亡くなった慶長3年の建立だが、それ以前はもっと小さく、また秀吉や家康が建立の援助をしたかもしれない。白山宮は白山という霊山を信仰するもので、比叡山も修験者によって信仰されたことで摂社を設けたのであろう。グーグルのマップでは社務所・参集殿の背後、大宮川沿いに「行者社(行者堂)」があり、修行僧や修験者が利用した跡だ。東西の本宮の次に大きな、また拝殿つきの宇佐宮と白山宮が西本宮に隣接しているところからも、西本宮が日吉大社の中心とわかるが、それは土地が西から東へと下り坂になっていることからも言える。となれば宇佐宮が白山宮よりも格上で、先に出来たであろう。人間社会と同じで、山手と下手となると住む人の格が違う。
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 宇佐宮と白山宮が同じような形で隣り合うことは、近江が大分の宇佐神宮と北陸の白山神社と星座のようにつながっていることを意味し、中部から西日本の縮図が日吉大社内に表現されているとも言える。摂社や末社は神社のネットワークを形成し、日本が神の国であることを端的に伝えている。それは神々に格の差はないとしても、社の大きさでその土地における重要度が違い、現代の大都市における会社の建物群を思わせる。大会社があれば小さな会社の支店があり、この建物の規模の差は古代でもあったはずで、権力を持つ者ほど大きな建物に住んだ。それは民主主義時代から見れば不平等なようだが、民主主義社会でも権力者は大きな建物を所有するから、人間の本質は時代によって変化しない。民主主義万歳と喜んでいるのは下々の大多数の人々で、彼らの中から国の頂点に立つ人は出て来ない。それで、誰もが妥協的に考えることは、権力を持つ者とそうでない者との調和だ。日吉大社の小さな末社がその背後に小さな子どもが隠れるのにちょうどよいかわいらしさであることとは別に、本宮が摂社が堂々たる貫禄を見せていることが、境内全体として見た時にテーマ・パークのように変化に富んで実に面白い。本宮と摂社のみではそうではあり得ず、その間に末社が点在する様子が、あらゆる角度から見つめての景観を豊かにしている。元は境内に108社もあったというから、その壮観さはいかほどであったかと思う。その名残はもちろん現存していて、筆者は次々に現われる末社の撮影に追われた。今日の3枚目の写真は上と下が隣り同士に建っていて、上が気比社、下がその北にある宇佐竈社だ。気比は敦賀に大きな神社がある。宇佐竈社は西本宮に対する大宮竈殿社となる。4枚目の写真は東へ下がる階段を挟んでさらに北にある宇佐若宮だ。階段を降りると白山姫神社拝殿があるが、この写真は撮っていない。その北にある白山宮は今日の2枚目の写真だ。白山宮のすぐ東にあるのが今日の5枚目の写真で、向きを変えて撮った2枚を上下に並べた。筆者は小さな社がたくさん並ぶ様子が好きだが、大きさが順次小さくなる4つの社のたたずまいは、遠近法を感じさせてとても面白い。その遠近法とは右つまり東へ視線が導かれるもので、実際人々はそっちの方へと歩むように参拝順路が仕組まれている。左端は劔宮社、次は不明で、その次が八坂社、右端が北野社だ。108も社があった時はこのように軒を連ねて、町のような雰囲気であったろう。神々も人間と同じように賑やかな方が好きであろうと考えた昔の日本人が、少しずつ摂社、末社を増やして大きな都市のような社群の景観を造った。それは森の中にあって、理想郷とも言える。寺院もたくさんの建物で同様の賑やかさを呈するが、墓地だけはひっそりとしてさびしい。そこでは子どもはかくれんぼする気になれないだろう。また大人からもたしなめられた。
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by uuuzen | 2018-08-07 23:59 | ●神社の造形
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