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●神社の造形―日吉大社、山王鳥居まで
求効果があるのかないのか、こうしてブログに出かけた場所の感想を書いていてどれほどの人が関心を持って出かけるだろうか。とはいえ、こうして書くことで対象が有名になってほしいとはほとんど考えない。



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自分の書きたい欲求を満たすことが第一で、その熱意が読者に伝われば、言及している対象にも関心を持ってもらえるかと思う。話は脱線するが、筆者が『大ザッパ論』を書き上げた時、編集者はその原稿をネット上でゲラを読んで感想を伝えてくれる集団に送った。その集団は今もあるのかどうか知らないが、メンバーは全員匿名で本好きだ。一般に発売される前に原稿が読めるので、喜んで最初の読者となって感想を伝えてくれる。それで筆者の原稿を読んだ人は、本の内容よりも著者に関心が湧いたと感想を送って来た。それは喜ぶべきなのかどうか。本を褒められるのが最もよいはずだが、それは著者が褒められることと同じであろうか。筆者は本を読んで感動するとその著者を素晴らしいと思う。絵画でも音楽でもそうで、著者と作品を同一視している。それで作者の風貌は写真や映像でわかるが、それを見て気に入らない人であれば最初からその人の作品を知る気が起こらない。割合そういうことがあって、評論家では大嫌いな人がいて、その人の顔を見ればすぐに目をそむけたくなる。となれば筆者も他者にそう思われることがあるはずだ。それででもないが、筆者はなるべくならネットに顔を晒したくない。『大ザッパ論』を上梓して2,3年後だったか、ネット・オークションで本を落札した時、その出品者が京都市内在住であったので、大丸百貨店で待ち合わせをして手わたしで受け取ったことがある。その出品者の若い男性は筆者が『大ザッパ論』の著者であることを知っていて、会った途端にそのことを言われ、また感激された。同じことがもう一度あったが、顔写真を晒していなくても、自分が気づかないうちに名前が知られていることは、嬉しいどころか、危険だと思っている。ほとんど無名の筆者ですらそうであるから、顔と名前が全国的に知られている人はさぞかし不自由であることを同情したくなるが、本人たちは有名であることで生活が成立しているし、顔を世間に晒し続けられる間は訴求効果がある。また自尊心が満たされるから、案外不自由とは思っていないかもしれない。その点、千年以上の歴史のある有名な寺社は、マスコミによる一時的な取り上げによる効果をほとんど期待していないだろう。そしていつ訪れても昔のままの雰囲気が保たれている寺社は、訪れる人に悠久の歴史への思いを馳せさせ、そういう訴求効果によって訪れた人の心の中に何かが蓄積される。それを信仰や信心と結びつける必要はない。自分が生まれるはるか昔から存在するものが眼前にあるということを確認するだけでよい。美術鑑賞がその端的なものだが、寺社を訪れても同じ感興は味わえる。
●神社の造形―日吉大社、山王鳥居まで_d0053294_23571501.jpg さて、一昨日の続きを書く。カメラの電池を交換したこともあって、日吉大社では数十枚の写真を撮った。まだ全部ブログ投稿用に加工していないが、写真の枚数によって投稿回数を決めるのではなく、日吉大社の境内を歩いた順に、いくつかの部分に分けるのがよいことを、入苑時にもらった「日吉大社と神猿」と題する見開きのパンフレットに載る「散策ガイド」の地図を見て思った。それで撮った写真は全部使い切れないはずだが、投稿回数は全部で9回になる。それほど広大な境内でも、地図を見ながら訪れていない宮がいくつかあることに気づいたので、今度は秋の紅葉時に訪れるのがいいかと思っている。また「日吉大社と神猿」のパンフレットはこれを書く段になって見ている状態で、訪れた時は一瞥もしなかったので、見所をさっぱり見落としてしまった。とはいえ、予め情報を得て見て回ることを筆者は好まない。意外性や感動が減少するからだ。それで、今日の最初の写真だが、この朱色の鳥居は大鳥居から西300メートルほどのところにあり、一昨日書いたように3年前の夏に延暦寺に訪れる際、南側の歩道からケーブルカー乗り場に行くために南へ曲がる際に見た。そのことを思い出しながら鳥居をくぐると、2枚目の上の写真のように一風変わった六角形の建物がそびえていた。「早尾地蔵」と言い、本尊は最澄が作ったとされるから、よほど古いものだ。それに応じて建物も立派だが、これほど大きな地蔵を祀る建物は見たことがない。地図を見ると、傍らの階段を上ると早尾神社があるが、これは見ていない。2枚目の下の写真は早尾地蔵から北50メートルほどの求法寺こと走井元三大師堂で、3年前に延暦寺で訪れた元三大師堂と同じく、慈恵大師を祀る。「走井(はしりい)」は「井戸が走る」で、水の流れが急なことを指すが、一昨日書いたように大鳥居をくぐってすぐ、北側の歩道を歩き始めると、左手の水路の水がかなり勢いよく流れていたことを想起させる。また「走井餅」は京都大阪の人ならば一度は食べたことがあるだろう。石清水八幡宮で売られるが、大津の追分辺りの水を「走井」と呼んで来た。またこの「走井元三大師堂」のすぐ西に日吉大社の社群を見るためには必ずわたる必要のある大宮川が流れているが、川の流れで100メートルほどの区間に三本の重文指定される石橋が架かっている。天正年間に秀吉が木の橋を寄進し、江戸時代にその形を模して石造りとした。最も南にあるのは大宮橋で、3枚目の写真がそうだが、上流の走井橋から撮った。3枚目下は大宮橋上からの撮影で、幅の広さがわかる。元三大師堂から引き返し、大宮橋をわかる手前左に受付の建物があり、入苑料を求められた。ひとり300円で、チケットと前述のパンフレットを受け取った。神社や大社は無料のところが多いが、パンフレットつきであり、また境内の広さと空気のよさを思えば安い。
●神社の造形―日吉大社、山王鳥居まで_d0053294_23574672.jpg 大宮橋下の水流は水深がとても浅く、底に敷かれた石がよく見えていた。それは大宮橋とともに、坂本に石組で有名な穴太集団が住んでいたことと関係があるだろう。4枚目の写真は走井橋をわたってすぐにある「走井祓殿社」で、樹齢数百年の太い杉に挟まれていた。4本あって高さ34メートルあり、「走井杉」と呼ばれるが、大宮橋や走井橋辺りが鬱蒼としていることは3枚目の写真からわかるだろう。手前にある奇妙に曲がる木も含めて御幣が飾られていて、これは松で、大きな台風があれば本当に倒れるかもしれず、伐採されるように思うが、奇妙な姿が歓迎されているのだろう。杉に囲まれた走井祓殿社の小さな社は、日陰にあって目立たないが、説明書きが添えられ、四座の神が祀られる。秀吉時代は「走井杉」がどうであったかと気になるが、樹木の多さや川の流れはそのままのはずで、大宮橋を見上げながら、またそれをわたる時は雄大な気分になれる。時代劇のロケに使うにも最適な気がするが、これまで許可されたことがあるだろうか。それはともかく、大宮橋をわたって西へ進むと、100メートルほどのところに5枚目の写真の山王鳥居がある。変わった形で、この鳥居は前述のパンフレットの表紙に印刷されている。鳥居の上にある三角形の破風は、日吉大社のホームページによれば、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表わすとされる。延暦寺と日吉大社が一体のものということで、最初の写真の鳥居のすぐ手前に「官幣大社 日吉神社」の石碑のすぐ背後、早尾地蔵に至る手前に、「比叡山延暦寺」というほとんど同じ大きさの石碑があることからもそれは納得出来る。それに元三大師堂の存在からもそう言える。仏教が入って来る以前は比叡山全体が神域であったはずで、そこに最澄が現われて延暦寺を開き、日本の神と折り合いをつける必要があった。そうして日吉大社は山の上から裾野に移動させられた。「山王信仰」の呼び名は日吉大社独自のもので、「山王」は比叡山の神の別名で、延暦寺の守護神だ。日吉大社の祭神は大山咋神と大物主神だが、パンフレットには、全国に分霊されて「日吉神社」「日枝神社」「山王神社」が約三千八百の社があり、山王信仰が天台宗の広がりとともに、また武士が城や屋敷を建てる際に方徐の神様として分霊したことにより、それほど多くなったと書いてある。そして分霊社が増えるにしたがって、「日吉さんと言えばお猿さん」と言われるほどに魔除けの神猿も広く知られるようになったとある。パンフレットは「日吉大社と神猿」と題し、山王鳥居よりも木彫り着色の猿が御幣を肩に担いだ像を大きく示している。「神猿」には「まさる」とルビが振ってあって、「魔が去る」「勝る」にかけて縁起のよい猿としている。比叡山には猿がいると思うが、その被害に遭った人がいるという話を聞いたことがないのは、自動車やケーブルカーを利用するからだろうか。
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 伏見稲荷大社近くで生まれた土人形の伏見人形には、猿を象ったものがとても多い。干支の12の動物すべてが伏見人形にはあるが、猿のみが異常に種類が多いのは、ひょっとすればこの山王信仰と関係があるかもしれない。近江から京都に出て来た人は多く、また今でもそうだが、そうした人たちが猿の人形を求めたのかもしれない。パンフレットに話を戻すと、題名の横に「「見ず聞かず言わざる」三つのさるよりも思わざるこそまさるなりけり」とあり、また下には小さな文字でこの三猿について、「……日光東照宮・神厩舎にある彫刻が有名ですが、もともと比叡山中興の祖と言われている良源の処世術から生まれた」と書かれている。つまり、本家は日吉大社にあるとの矜持だが、そのためにパンフレットは神猿のことが満載で、散策は境内にある神猿に因む彫刻や柿、塚や神猿舎などを見て回ればよいことを示唆している。筆者はその猿にはほとんど注意を払わなかった。それは嵐山にモンキー・パークがあって、本物の猿をたくさん間近に見られるからでもある。それにわが家の裏庭には猿がやって来ることもあって、猿は全く珍しくない。そのため、たまにTVで猿が街中に現われたというニュースを見ても何を大騒ぎしているのかと不思議だが、それほどに猿が珍しいものになっていることは、猿を神として祀ることと大いに関係があるだろう。日吉大社の境内に猿が現われると、参拝客を襲う恐れがあるとみなされ、すぐに捕獲されると思うが、延暦寺が出来た時も猿は居場所を奪われ、他の山に逃げるしかなかったはずで、寺や神社は猿を極力近づけないようにし、またそのことで猿を神として崇めたのだろう。猿にすれば人間が語呂合わせで「勝る」などと喜んでいることはどうでもよい。そう思うと、日吉大社の広い境内は人間が猿を駆逐した結果でもあって、整然と社が並ぶ様子は今でいう都会と同じで、清浄な空気が満喫出来る空間ではあるが、自然そのものとは言えない複雑な気持ちになる。だが、猿を神とすることはまだ自然への恐れの表われで、現代の都会は犠牲にした何かを祀ることはない。誰もが堂々と祀るのは金で、愛される動物はせいぜい犬や猫のペットだ。そう思えば、日吉大社の神猿は、その本物のボス猿の姿が見えないところに神として祀られる貫禄があり、境内を訪れる人が猿に襲われる心配をする必要のないことが正しい措置と言える。また、パンフレットには「猿柿」の写真があって、比叡山から猿が降りて来てその渋柿を食べると説明される。つまり、猿の住処を奪ったが、一方で猿の好物の柿を植えて猿に食べさせて共存を考えているということだ。それは仏教の教えでもあるだろう。それに比叡山全体では延暦寺や日吉大社の境内の占める割合はごく少ないし、比叡山でなくても猿は住める。そう猿が訴求していると人間は信じる。
●神社の造形―日吉大社、山王鳥居まで_d0053294_23583530.jpg

by uuuzen | 2018-08-04 23:59 | ●神社の造形
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