焼土となった戦後の東京では、新たに建てる住宅は最大12坪という制限があったことを本展で知った。その後その制度は撤廃されたが、大都市であれば一家が住むのに12坪で充分という思いは高度成長期まではごく普通ではなかったか。

そういう日本の小さな家をアメリカ人はウサギ小屋と評し、そのことを日本全体がどこか恥じて、日本が世界的な金持ちになって行くにつれて住宅は大きいほどよく、また金持ちの象徴となった。男として生まれて来た者の最大の夢は家を所有することとされ、その傾向は現在も続いているが、子育てが終わって夫婦ふたりになると使わない部屋が増え、12坪でも充分だ。京都府の美山であったか、昨日のTV番組で300坪の土地に立派な家やいくつかの離れや小屋などがついて1600万円ほどの不動産が紹介されていた。夫婦のどちらかが死に、ひとりになった者が都会に住む息子などと一緒に住むために家を手放すのだろう。1600万では嵐山や嵯峨に限らず、都会では12坪の家はとても建たない。12坪の土地だけでもそれくらいはする。その点、ただみたいに土地が安い美山は魅力的だが、高速を使えば京都市から車で1時間ほどとはいえ、高齢になれば京都市内まで出るのが億劫になるのは目に見えている。わが自治会に住む綾部から出て来た高齢者はもうそこには帰りたくないと言っている。その人によれば、田舎で生まれ育った者でもそうであるから、田舎に憧れて都会から移住する人はよほど現実を知らないとのことだ。「風風の湯」でたまに出会うYさんは今70歳ほどで、奥さんがひとまわり年上だが、子どもを得なかったので骨董趣味にたくさん金を使い、家を3軒所有してそれを収納している。その2軒を売り出し中で、落柿舎の近くに最近買った一軒家に近々移住するが、かなりの量の骨董品を処分したようだ。またその家に転居するのは奥さんが現在のマンションでは土いじりが出来ないという不満を抱えるからだが、奥さんは80代前半の年齢であるから、土いじりといってもそう何年も続けられない。現在住むマンションは150平米と聞くが、夫婦ふたりでは広過ぎるのに、骨董でかなり場所を取られているのは、そういう趣味のない人からすればあまりに馬鹿げたことだ。今度の一軒家がどのくらいの広さかは知らないが、落柿舎の近くは大きな家ばかりで、土いじりの出来る庭や駐車場があるというから、1億近くはするだろう。子どもがいないので財産は生きている間に使い切りたいそうだが、いつまで生きるかわからず、またもうほしいものがさほどないとなれば、遺産は親族のものになる。12坪程度の家に住んでいれば、夫婦が死んでも家の価値はしれたもので、本人たちも充分使い切ったと思える。自惚れる金持ちは貧乏人は金持ちを羨ましがると言うが、何でも階級がある。落柿舎の一軒家もアメリカの広い土地の所有者から見ればウサギ小屋だ。
去年12月23日に家内と大阪に出て本展を見た。LIXILギャラリーとしては展示数がとても多く、もう一度見たいと思いながら、会期終了の今月19日までに見ることがあるかどうか。吉田謙吉という名前は初めて知った。東京生まれの舞台装置家で、タイポグラフィーの作家でもあった。また考現学もやっていて、きれいな細かい字のメモやスケッチも紹介されていた。その多彩な活動は東京美術学校の図案科卒ということからわかる。そういう多方面での業績を残した作家であれば、12坪程度のLIXILギャラリーではあまりに狭い。美術館で回顧展が開かれてもいいが、本展を機にそれが実現するかもしれない。本展はLIXILギャラリーの企画展のテーマである「住」に関係することとして、吉田が設計した12坪の自宅を模型や写真を使って紹介するものが主となった。ただし、それだけでは遺族から不満があったのかどうか、端的にその他の仕事を紹介していた。それらの資料は遺族が所有しているのだろうが、12坪の自宅にどのように収納されていたのかが気になる。吉田は写真をよく撮ったし、外国旅行もし、雑誌でイラストや文章を発表していたので、本だけでもかなりの量であったろう。展示の最後には彼の舞台デザインの原画やまたそれを実際に舞台に適用した際の舞台の映像が紹介されていたが、手がけた演劇の数がとても多いようなので、そうした本業の資料も大変な量であろう。もっとも、12坪の家は戦後間もなく東京に建てて住んだもので、12坪という決まりがなくなってからはもっと広い家に移ったかもしれない。あるいは子どもたちが巣立ったのでそのままその家に住み続けたかもしれないが、12坪でどれだけこだわりのある家が建てられるかの面白い例だ。サラリーマンなら昼間は妻だけなので12坪でもいいが、吉田は自由業であり、また舞台装置が本業であるから、12坪の家にもその舞台を作った。もっとも、4帖半ほどを板張りにして舞台の雰囲気を付与したもので、多目的に使われた。家は2階建てで、小さな庭もあって、その庭を含めて12坪と思うが、その中でどのように便利に暮らすかを考えた。たとえば座敷机の4本脚に着脱自在の長い棒を継ぎ足すことでテーブルに早変わりさせ、使い回しという合理性を発揮した。これは彼が雑誌に投稿したアイデアだが、若いカメラマンが1部屋のアパートに住みながら、写真の現像焼き付けを行ないながら生活もするという方法を紹介していた。着脱自在のテーブルの脚と同じ考えによるもので、写真の作業が終わればその場所を板で塞いでベッド代わりにするというものだ。また、若い女性がいかに自分の狭い部屋を夢あるものにするかという質問に対して、カーテンや壁紙を華やかな柄にするなど、イラストつきで答えていた。同じ狭い空間がアイデアひとつで全然違う雰囲気になるという考えは舞台装置家ならではだ。
一昨日だったか、TVである30代のカップルの生活が紹介された。女性はホストをきれいに撮影するという評判のあるカメラマンで、男性は画家を目指している。都内の狭いアパートに住み、ほとんどの経済を女性が負担していることもあって、男性が自由に使える場所は座っているごくわずかな部分だけだ。筆者は都内のアパートの家賃の相場を知らないが、その女性カメラマンの趣味の細々とした品物が溢れ、足の踏み場もない窮屈な中、どのようにして寝ているのか不思議であった。夢を追いかけるのは若者の特権で、ふたりが貧しさの中で助け合いながら明るく生活している様子を他人がとやかく言うことではないが、男性が絵で食べて行けるようになるのは難しいだろう。吉田謙吉は自分の才能が発揮出来るところからどんどん仕事を受けたであろうが、それでも12坪の家であったからだ。美術を専門に生きて行く者は、親の資産がない限り、一般的なサラリーマンよりはるかに年収が多くて大きな家に住めるということはめったにない。先のカップルはその現実をよく知りながら、さりとてサラリーマンにもなれず、なるつもりもなく、狭いアパートをどうにか創造的で楽しい空間として生きている。何が言いたいかと言えば、日本は戦後直後とさほど住環境は変わっておらず、相変わらずウサギ小屋然とした狭い住まいで暮らす人がいて、またそれはそれなりに幸福感があるということだ。そのカップルの生活は筆者から見ればままごとのようだが、そうであってもふたりが楽しいのであればよい。片方が有名になって収入が増えるとおそらく別れるであろうし、また収入が増えた者が幸福になれるとは限らない。なければないで工夫すればよく、その工夫が人生の楽しみであって、何事も多い方がよいと望めばきりがない。筆者がよく考えるのは、人間は何が遺せるかだ。最も大事なことは生きている間に満足を得ることだが、それは誰でもそれなりにしている。金持ちであることを誇っても大きな家はすぐに時代遅れになって取り壊され、所有していた骨董や書籍は市場に漂流を始める。有名な人はその名声が残るが、名声の元となるのは創作物だ。吉田は終生その創作に従事したが、筆者がその名前を知るきっかけになったものが、彼が設計したモダンな12坪の家というのが面白い。それは自分の人生そのものが創作であったことで、大金持ちが経済力にものを言わせて建てた醜悪で空虚な邸宅とは違って温かみに溢れる。その様子は本展の案内はがき裏面に印刷されるその12坪の家の写真からも伝わる。玄関に女の子が立つが、その様子は微笑ましい。そしてその玄関の戸のガラスにはその写真の撮影者の横に立つもうひとりの女の子の姿がうっすらと映っている。家族で撮った記念すべき写真なのだろう。今でも同じような暮らしをする人は大勢いるが、無名は無名なりに楽しく生きればよい。