被写体になる機会が多いと表情を作りやすくなるだろう。場数を踏むと何でもそうだ。最初の頃にあった初々しさを失って貫禄がつくのが普通だが、うぶさ加減と貫禄のつき具合の均衡がその人の魅力を形づくる。

貫禄は体につく脂肪とおおよそ相関関係にあり、脂肪はゆったりとした気分と相関があり、ゆったり気分は経済力と相関があり、経済力はより多くの人に存在を知られることと相関があって、つまるところ有名になれば貫禄がつくが、初々しさの片鱗もなく、貫禄が醜さと思える人がままいる。さて、今日はニエリエビタさんを取り上げるが、彼女と最初に会った去年10月28日は会場に着くのに1時間以上も道に迷ったが、それと同様、最短距離の3倍は歩いた。それがあまりにも不思議で、歩いた道を地図で調べた。Aは展覧会を見た後に調べものをした府立図書館で、そこから青線を北上したBがHARD RAINだ。Dは10月26日に訪れたライヴハウス、Eには3月21日に訪れる。子どもでも迷わないはずなのに、筆者はCから赤線をたどった。どうもニエリエビタさんに会うことは筆者には迷路で、方向感覚を失う。ともかく、6時半に会場に着き、カウンターで缶ビールを注文して左手奥のテーブルに陣取った。背後の控え室に彼女がいるかと想像していると、10分ほどして階段を下りて来る彼女に気づいた。彼女は笑顔で真っすぐ筆者のところに来たが、全身黒づくめで驚いた。彼女も筆者が来ると思っていなかったので驚いていた。出演は3番目で8時半頃と聞いたが、4番目になった。彼女と知り合って3か月足らず、ライヴは3度目、顔を見るのは4回目で、相変わらず捉えどころのない魅力を感じている。YOUTUBEに10年以上前の演奏する姿があるが、その頃の雰囲気と現在がうまくつながらず、多面体で多色の人物像を思う。それは20代半ばから30代半ばへという女性として変化に富む時期をひとまとめに見ようとする無理さ加減によるが、どうもそれだけではなく、彼女に内在する多様性に負うものと思えてならない。平たく言えば「つかみどころがない」ということだが、実際はつかみどころがあり過ぎて手に負えないと言うべきで、音楽家としての彼女がどこから来たのかさっぱりわからない。彼女が好む音楽を訊けば簡単にわかることと言われそうだが、好きな音楽からの影響だけで彼女の音楽の魅力はわからない気がしている。つまりとても個性的で、彼女に未知の音楽を聴かせたとして、そこから養分を吸収しても、影響の痕跡が誰にもわからないように消化するだろう。そしておそらくどのような音楽からももうほとんど影響を受けないだろう。それは頑固ゆえではない。音楽の才能はきわめて若い頃に開花するし、彼女の中にたくさんある種子が自ずと発芽するからだ。ただし、それには音楽仲間や新たな人物との出会いといった刺激が必要だ。
Sさんと親しく話していると、ベージュ色のワンピース姿の彼女がギターを持って背後からやって来た。筆者のすぐ脇を歩いて舞台に上がる際、彼女の表情は見たことのない真面目なもので、そのことが珍しく、筆者はSさんに伝えた。筆者は彼女の顔をまじまじと見つめたことはなく、思い浮かべられるのは笑顔だが、これから人前で演奏するというからには厳しい表情はあたりまえだ。ギターの背面が見えたのも興味深く、瓜のような形をしてとても艶があり、しかも赤っぽい縦縞の線が数本あった。その様子は「瓜坊」のようにかわらしく、また猪はこれから勇ましい気分で演奏せねばならない彼女にはふさわしくもあった。舞台上の椅子に座った彼女は、最初にどの曲を演奏しようかと語った。それはその時の会場の雰囲気を参考に決めようということで、自在に演奏出来る貫禄と言ってよい。最初は「タバコ屋の親父」、2曲目は「LINEDANCE」で、後者はアルバム・ヴァージョンとは違ってかなりスローなテンポであったので、全く違う曲に聴こえた。そのことを5人の演奏が終わった後、Sさんを交えた談笑で彼女に伝えると、彼女はふたつのヴァージョンがあると教えてくれた。つまり、彼女の曲の魅力は変幻自在性にあり、CDだけではわからない。3曲目の「風」を演奏する直前に彼女は小さな咳をし、「題名は風邪のことではないですよ」と冗談を言った。前回のライヴでもそのタバコ屋の親父ギャグを彼女は言い、共演者の女性から、「そのような親父ギャグを……」と揶揄されていた。それはともかく、彼女は客に話しかけることを好むようで、最後の曲を演奏する前には、しゃべり過ぎたので演奏時間がなくなりかけていると言った。話しかけは客へのサービスだが、気分を切り替えて落ち着きたいからでもあろう。その語りかけは時にぎこちなさが露わになるが、そこが最初に書いたように場数を多く踏んで来ているにもかかわらず、彼女が失わない初々しさだ。恥じらいと言ってもよい。それは貫禄を減少させない。貫禄は一方で身につけながら、初々しさはいつまでも失ってはならない。それがある限りは心を若くしていられる。また初々しさは、客を侮らず、「慣れ」を手なづけて暴走させない限りは保つことが出来る。「風」を歌い終わった後、彼女は傍らに置いてあった自身のCDを手に取りながら、最初の2曲は初CD『ラビリンス』、「風」は2作目の『風』に収録されることを話した。そしてアルバム『風』はヴィオラ以外、アコーディオンやシンセサイザー、ピアノなど全部自分で演奏して録音したと言ったが、それはギター伴奏で歌うことからはわからない音楽性を伝えたいためで、実際ギター伴奏のみの「風」は、初めて聴く者には伴奏の繰り返し部分の背後に彼女がどのような多彩な音を盛り込みたいかが伝わらない。
彼女の多面体的多彩ぶりは、彼女にオーケストレーションの才能があるとの意味でもあり、Sさんを含めた談笑の中で彼女は自作を編曲する作業がとても楽しいと語った。ところで、筆者は彼女のCDを聴きながら、彼女が録音した音そのままではなく、違う楽器の違うメロディを脳裏で付与することがしばしばある。そのことを彼女は「勝手に作り変えては嫌」と言うかもしれないが、彼女のCDの収められた曲は、それが唯一絶対の形ではないように感じられる。もちろん彼女の歌声はそのままで、それを引き立てる楽器、伴奏の話だ。それほどに作品が他者に開かれている。筆者の中ではそれが時に大管弦楽団になるかと思えば、激しいロックになることもあって、千変万化なのだ。そのことも筆者は彼女に言った。つまり彼女のある曲を5つくらいの別ヴァージョンに作り変えてアルバムを出してもいいという意見だ。それは何とかMIXと称して、ダンス・ミュージックが歓迎された時代では全く珍しくない手法だが、筆者が考えるのはMIX違いではなく、異なる楽器編成で伴奏をすっかり変えることだ。そのように、どのように脚色しても彼女らしさはそのままで、つまりは多面体で多色という特質がある。それはザッパの音楽性と同じで、彼女の編曲能力が乏しいことを意味しないどころか、全くその反対だ。彼女はたまたま録音した時にそういう楽器編成を選んだだけで、シンセサイザーを使えば手っ取り早いとはいえ、時間や経費が許されるのであれば、もっと贅沢な編曲をしたいだろう。それはともかく、4曲目は「笑顔のおまじない」で、彼女は夫婦和合の曲と語った。それは初耳だ。ならばたとえば「右のほっぺにポヨンポヨン」といった歌詞は、前回のライヴで客席から聞こえた「放送禁止!」の言葉も納得が行くが、夫婦和合であれば目くじらを立てることはない。さて、最後の曲を演奏する段になって、彼女は「おにぎりの歌」か「ホログラム」のどちらがいいかと、客の挙手による賛否を取ると言い、「笑顔のおまじない」の流れからすれば前者がよく、後者はそれとは違って「しっとりとしている」と形容した。後者が多かったのでそれを演奏したが、筆者にとって彼女が自作を形容したことは初めてで興味深かった。談笑の中で彼女は自作アルバムの方向性にふたつあってどちらにするか迷っていると語った。それは「おにぎりの歌」か「ホログラム」に代表されると考えてよい。どちらの方向を選ぶか迷っているのであればどちらも取ればよく、筆者は次作は2枚組がいいと意見した。それほどに多作になってほしいからだ。もちろんそれには時間も経費もかかる。彼女の曲はギターと歌だけで完結するものではなく、多面的で多色であることが持ち味であるからにはなおさらだ。それに彼女は映像も撮りたいと語った。被写体になりたいのであれば、そして筆者に撮影の才能があれば撮りたいが、それは言わなかった。