晒すと言えば恥という言葉が浮かぶのは古い人間か。昨夜ツイッターの仕組みがよくわからないのでいろいろ調べていると、面白い質問を見つけた。フォロワーもフォローしている人もゼロで、せめて50人はフォロワーがいないと恥ずかしいのでどうすればいいかというのだ。

その答えの中にとても面白いものがあった。フォロワーがゼロなのに誰に対して恥ずかしいのかというのだ。もちろん質問者は自分に人気がないことを恥じているのだが、同じことを問う別の質問者に対して、フォロワーの第1号になってあげましょうかと書き込んでいる返答者もあって、優しい人がいるものだと感心した。筆者はツイッターをブログとリンクさせているだけで、専用しておらず、誰もフォローしていないが、フォロワーの数が多いことに生きる勇気を得ている人が多いことは理解出来る。人気者であるとの自覚が得られることは心地よいからだが、筆者は顔の知らない相手をいくら無数に得ても幸福感は得られない。それはさておき、水曜日の23日、大阪に出て夕方からHARD RAINというライヴハウスに行った。自主的に見るために出かけたのは初めてだ。ニエリエビタさんの演奏が目当てだが、
以前書いたことのあるSさんから聞いていた男性ミュージシャン燻裕里も出るのでちょうどつごうがよかった。それにきっと会えると思ったSさんも来た。当夜は比較的暖かったからよかったが、ライヴ以外に用事をふたつ作ったため、今夜のようにHARDに雪が降れば出かけるのを躊躇した。5人が演奏し、今日から順に感想を書く。まず弦花という若い女性が登場した。彼女は筆者が地下への階段を降りて行った時、他の出演者と立って話をしていた。もっとも、出演者か客かわからず、出演者であるとすればもう開演の6時半間際であるのに、人の入りがとても少なく、ライヴハウスの運営の難しさを思った。話を戻す。弦花の弦はギターで、花は彼女自身と思えば、この名前は記憶しやすく、一度聞けば忘れない。あどけない雰囲気で年齢不詳だが、30代であろう。昭和ないし日本人形的な雰囲気で、顔の印象はあまり強くないが、歌詞は赤裸々で強烈、それを極端に起伏激しく歌い、やはり一度聴けば忘れない。ただし、そのことがよいかどうかとなれば、訴えることがわかりやすいだけに繰り返し楽しむというものではない気がした。大阪と京都で頻繁にライヴを開催していて、たぶん大阪在住だろう。ライヴの頻度は週1回より多く、アルバイトをするなど、ほかに仕事は持っていないのではないか。YOUTUBEを見ると東京で演奏した際の説明文に、息子さんが会場に来ていたとあるので、子どもがいるとすればご主人が経済的に支えているのだろう。経済的な問題はシンガーソングライターにとっては特に大きく、また女性の場合は結婚を機に独身時代とは違った曲や歌詞を書くことになる可能性が大きい。
弦花さんはツイッターもとてもよく利用していて、日に数回書き込むこともある。フォロワーの数も3桁のかなり多い部類で、積極的に活動している様子がうかがえる。初CD『ヨリソウカゲ』は去年5月に発売されたので、ライヴ活動を始めたのはここ数年かと思う。クラシック・ギターを多少学んだことがあるような演奏で、また歌詞は経験や日常生活を反映したものだ。それだけに迫真的だが、作品に密着し過ぎている嫌い、つまり思い入れの激しさが露わで、ポップスとしては楽しみにくい。たとえばジョン・レノンの「マザー」を思い出すが、辛い過去の経験をそのまま晒すような内容は音楽に夢を感じたい人には敬遠されがちだ。かと言って、虚構を歌詞にするのは彼女には出来にくいだろう。もっとも、彼女の赤裸々な雰囲気の歌詞が作りものであるかもしれず、そうであればそれはそれで別の意味でしたたかさがあってよい。また、時代は違って今はツイッターやフェイスブックが大流行し、若者の悩みとそれを解消する方法が筆者のような世代とは大きく違っていて、彼女の曲のようにより直截的なものが歓迎されやすいかもしれない。つまり、ツイッターなどのSNSで他者と皮相的なつながりをたくさん持つほどに、より真実味のある、生々しい作品を求めたくなるということだ。彼女が最初に歌ったのは「お月さま」で、次が植物についての2曲で、赤い薔薇と食虫植物、そして猫についての2曲、その後さらに2曲が歌われた。最後から2曲目は、小さな頃から歌うことが好きであったのに、生きて行くためにそれを諦め、その後やはり歌は自分の生きている証で、命がなくなるまで歌い続けるといった内容であった。伴奏はポール・マッカートニーの1982年のアルバム『タッグ・オブ・ウォー』に収録される「ワンダーラスト」を思い出させたが、同曲は讃美歌にきわめて似たメロディがある。また薔薇の花の曲は歌のメロディは「学生街の喫茶店」を想起させたが、当然いろんな曲を聴きながら自分の世界を作っている。そこで彼女がどういう曲を聴いて来たかに興味が湧くが、歌い方や歌詞はスティーライ・スパンを思い出させた。経済事情で歌を断念したが、今はライヴハウスで歌うことが出来る境遇に感謝しているというのは、よほど音楽をやめていた時の生活が辛かったことになるが、そのように強い表現の欲求がある者だけがその世界で生き残って行くのは現実だ。彼女はYOUTUBEの最近の動画では、その音楽家として生きる覚悟の曲を歌う時にすすり泣いていて、その感情移入の激しさにもらい泣きさせられるのは確かとしても、同じような苦しみはたいていの芸術家は経験しているし、またそれを作品に直接表現することはない。もう少し作品をつき放して表現する方が聴き手は楽しめる。苦労を忘れたいために作品を楽しむのに、作者がそれを晒すと気が滅入りやすい。
シンガーソングライターは笑顔を客に見せながら、実際はその陰で苦悶している場合が多々あるはずで、またそのことがわかるだけに客は笑顔に励まされもする。全く辛いこととは無縁の生活を送って来たように見える人でも、普通の人の想像の及ばない苦労を経験したことはいくらでもある。そして、苦労は晒さない方がよい。筆者が今読み終えようとしているルナンの『思い出』は、「他人に自分のことを語るな」と書いてある。それは自作に対して自分の生活とは無関係に存在する普遍性を持つべきとの覚悟があるからだ。この意味を誰にも教わらずに若い頃からよくわかっている人があるが、そうでなければいろんな尊敬すべき人と出会うために年齢を重ねるしかない。話を戻すと、苦しみを直接に表現する芸術はある。たとえば表現主義だ。筆者はそれが大好きで、激しい絵画や音楽を好むが、言葉を扱うとなるとあまりに生々しい個人的なことになりやすい。そのため、隠喩を使うか、苦労話はなるべく笑いを誘うように話す方がよい。一方、個人の経験を主とする私小説があるから、弦花さんは面白い小説が書けるのではないか。ところで、YOUTUBEでたくさん見られるは彼女の曲はコメントが出来ないようになっている。もし彼女がこれを読めば困惑するか、いい気がしないかもしれないが、作品を世に出すことはいろんな見方に晒されることで、賛否は必ずある。また彼女のツイッターを拾い読みすると、「絵の才能がほしい」とあった。ニエリエビタさんは絵も上手で、筆者はその才能を大いに認めるが、弦花さんの曲はそのままできわめて絵画的で、描く必要はない。
1本の赤い薔薇や食虫植物のムシトリスミレについての曲は、題名からしてそのままで一幅の絵画だ。また目のつけどころが強烈で、鋭い感性の持ち主であることは即座にわかる。それに失恋についての曲は女性の執念のようなものを感じさせる。だが、そういう曲を男が好むかと言えば、筆者はたじろぐばかりだ。たとえは悪いが、彼女と恋愛すると泥沼の関係になる気がする。昔ある女性と知り合った時、彼女は筆者のことをこう言った。「大山さんと一緒になれば毎日血みどろの喧嘩をするでしょうね」。そのとおりと筆者も思った。彼女は筆者をセクシーだと何度も誉めたが、一方ではあまりに性格が似ているのですぐに激しい喧嘩をすると予想したのだ。筆者は一見温和そうだが、激しい性格を秘めているということなのだが、彼女はそれを見抜いていた。弦花さんはおそらく筆者に性格が似ているのだろう。そう思うだけに、彼女が現在思いどおりに音楽活動に邁進出来る境遇を得ていることに安心感が伝わる。それはたとえば洗剤の香料についての曲で、日常のちょっとしたことに目を行き届かせている余裕が感じられる。そうした曲は独身女性でも書くかもしれないが、母親の視点によるものではないだろうか。結婚して子をもうければもう女性は怖いものがない。