考えをまとめてから書くべきだが、このブログはだいたいいつも即興で書いている。ぼんやりと頭に浮かんでいることを見定めながら、どういう結末になるのか自分でもわからない。またそのことが怖くもあり楽しくもある状態で書き始める。
四条河原町の高島屋で現在入場無料の大きな展覧会が開催されている。チラシによれば展示品が100、写真が200だ。6日に母の病院を訪れた帰り、家内は見ようと言ったが、筆者にその気がなかった。そして10日に家内の妹から電話があって、同展を見たいので一緒に行かないかと誘われた。その日は十日ゑびすに行くつもりであったので、ちょうどいいと思い直し、3人で見たが、写真のみの展示ではなく、見応えがあった。また1階の待ち合わせをしたフロアに天皇陛下の御成婚の際のパレードに使われた馬車が展示されていて、これにまず驚いた。「儀装馬車」とあって、これを「偽装馬車」つまりレプリカと勘違いして「なーんだ」という表情をして去って行く人が何人もいた。だが、実際にパレードに使われた馬車で、筆者は記念切手にこの馬車が図案として使われたことをよく覚えている。1976年発行の「天皇陛下在位50年記念」の50円切手だ。もちろん昭和天皇のことで、今回の展覧会は平成の天皇であるから、代々この馬車が使われていることになる。めったに使わないものであるから、新品同様だが、保存具合によっては劣化するから、その心配のない倉庫が宮内庁にあるのだろう。またそこから運び出して京都の百貨店まで持って来られたことを思うと、どのようにいつフロアに運び入れたのかなど、担当者の労苦をあれこれと想像する。1階のフロアは四条河原町交差点に面しているので、たとえば八坂神社に初詣に行く人の目に触れやすい。それで高島屋で開催されたと思うが、東京ではどうであったのか、また今後開催されるのか、その点が気になる。というのは、今年の正月明けと四条河原町という好条件に匹敵する展覧会が東京で可能とはあまり思えないからだが、今調べると4月3日から21日まで日本橋の高島屋で開催される予定だ。京都が最初というのは京都人の気位の高さをくすぐる。そして4月30日までが平成なので、その直前まで東京で開催されるのは東京人には自慢の種となるはずで、うまく企画したものだ。人が多く集まる百貨店での展示は理想的で、入場無料としたのは高島屋が展示のための経費を負担したことになり、損して得取れの精神だ。これまでも在位記念の同様の展覧会はあったと記憶するが、ご成婚60年、即位30年、しかもいよいよ平成が終わるという大きな区切りでの展覧会であり、TVその他でよく知っていることをざっと振り返る意味でもいい機会だ。一方の大丸百貨店では1階のフロアには、発泡スチロール製と思うが、大きな朱塗りの鳥居が据えられ、その写真を6日に撮ろうと思いつつ、何となくそれが憚られた。
200点の写真はおそらく新聞や雑誌、TVでこれまでに誰もが見たことのあるものばかりで、特に目を引くものはなかったが、おおよそ時代順の展示ながら、ジャンル別でもあってたまに時代を遡ることもあった。少しずつ年齢を重ねて行く様子がわかるのは、たとえばYOUTUBEで見るミュージシャンの映像比較と同じで、その意味で本展はとても現在的な企画と言える。そう言えば筆者はここ20年ほどはほとんど自分の写真を撮っていないので、筆者が死んだ後、筆者の生涯を写真でたどろうとしてもその情報は著しく乏しい。それはカメラのない時代ではもっとそうであったが、カメラが発明されてからも貧乏人はめったに写真を撮らなかったので、それと同じと思えばいい。いつでもどこでも撮影出来て、また自分の姿を喜んでネットに載せることが大流行している現在、筆者は文句なしに旧世代に属し、筆者の写真が乏しいことを誰も気にしない。そのことを知っているだけになおさら自分の写真を撮ろうとは思わず、ネットに載せることもないが、これは旧世代であることに甘んじていることとは別に、なるべく姿を世間に晒さないことで、前述のYOUTUBE上のミュージシャンのたとえば10年や20年の活動における姿の変化という、見方によってはとても残酷な晒し者として自分を置きたくないからでもある。5,6年前になるか、ネットで知り合ったある人から、筆者の顔写真がネットにはないという指摘を受けた。探せば2,3あるが、ブログの投稿数が3000を超えるでは誰もそれを探そうとしない。謎めいている方がいいと思っているのではなく、筆者を含めて顔や姿はほとんどの人はネットでは間抜けに見えるもので、せめてその本性を晒したくないからだ。その点、常に他人から見られているためというのではなしに、天皇皇后両陛下は、週刊誌によく載る、時として変な、また醜悪な表情を撮影される芸能人とは大いに違って、どの写真も人柄そのものが表われている。なかなかそれを保つことは無理な話で、筆者は高齢になるほどにふたりの表情が柔和であることに感心した。ご成婚当時は俗っぽが垣間見えると言いたいのではないが、誰もが若い頃に持ち得る雰囲気があった。またそうであったので国民に親しまれたが、60年の歳月がふたりをますます清らかな存在にして行ったことを思う。それはあえて言えば一部の芸術家や学者に見られる雰囲気に近いかもしれない。そのように年齢を重ねることはそう簡単ではない。生きている間に大金持ちになっても、たいていは高齢に達した時の表情は絵に描いたような醜さだ。そう言えば筆者が自分の写真を撮らないのは、そういう醜悪さが露わに写ることを嫌悪しているからかもしれない。それはともかく、本展での天皇皇后の写真は、いついかなる時に被写体になっても変化のない人間性を示していて、それがとても面白い。
写真に触発された絵画として蜷川実花の100号ほどの油彩画があった。アクリル画かもしれないが、絵画はこれのみであったと思う。バンザイ・クリフはサイパン島の北端の崖で、戦時中、アメリカ兵に捕まることを拒否した女性たちがそこから飛び降りた。アメリカ軍が撮影したそのカラー映像を誰しもTVの特集番組で見たことがあるだろう。蜷川はサイパンを訪れた天皇皇后がその崖を臨む場所に立って首を垂れたニュース映像を見て感銘を受け、写真を元に描いたが、遠景のバンザイ・クリフは写真そのままで、近景の天皇皇后の後ろ姿などは白い絵具でキャンヴァスを埋め、引っ掻きによる線描きによって体の輪郭などを表現している。そのため、遠目には未完成の作品に見えるが、間近に寄れば、天皇皇后の背後に立つ形になる。この絵と同じ角度で撮影された写真は映像があるはずで、それはすべて原色であるから、蜷川は意図があって近景を白くしたことになる。なぜそうしたかだが、首を垂れる姿を遠景と同じく現実的つまり写実的には表現したくなかったためだ。その行為は、バンザイ・クリフであった悲惨な出来事をまじまじと見つめる一方、天皇皇后が謝罪したという意味合いを直視するに忍びないという思いが見え透く。また天皇は象徴であり、その天皇の謝罪もそうあるべきとの考えでからであろう。天皇を背後から描くことは、この絵を見る人はみな天皇と同じ態度を取る。実際にではなくても内心は同じように首を垂れるはずで、その国民の同意を天皇が象徴的に率先していると蜷川は言いたいのだろう。ふたりをバンザイ・クリフと同じように現実的な色合いで描くと、その象徴性がその着色によってうすらぐはずで、その意味で蜷川の行為は理解出来るが、間近に寄らねばふたりの姿が確認出来ないことは、本当はふたりに首を垂れさせたくないとの読み取りも出来る。また両陛下をこのように絵画にすることは、戦前なら許されないことであったはずで、今でも肖像権の問題で画家はあえて描こうとはしない。蜷川がそれをしたのは、今や日本を代表する画家という認知があるからであろうし、また本作を描いたことでさらに特別な地位を得たとも言えるのではないか。ともかく、この1点は異様に存在感を放っていたが、それはニュース写真をどう読み解くかという人々の思いをかなり刺激していることでもあって、ある意味では開かれた皇室を思わせる。となれば次の年号においては、さらに天皇をどのように美術作品の画題とするかという挑戦が行なわれるだろう。これは皇室がタブーではなくなって行くことでもあるが、ニュース映像を元にしている限りは、先の蜷川の作品のように、見る者によって読み取りがさまざまだ。そして美術家は左翼の烙印を押されない限り、毀誉褒貶を問われてもうまく交わすことが出来る余地がある。
写真でひとつ気になったのは、1995年と思うが、長崎の原爆記念像の前での式典だ。平和祈念像の向かって左の顔にケロイド状の異物がぺったりとこびりついて見えていた。そんなものがあるはずはないが、この像は汚れやまた劣化によって解体修理されていて、その直前にはそのような顔になっていたかもしれない。そう思って帰宅してネットで調べると、日差しの具合で、像の天を指す右手が顔にそのような奇妙な影を落としていることがわかった。北村西望がその効果を計算して像を造ったのかどうかは知らないが、ある時刻にはそのような顔に見えることは確かで、暗示的ではある。これはタイかヴェトナムからの贈り物で、天皇皇后の姿のそのままいろんな色の米粒で再現した「米画」があった。写真を元にしたもので、手先の器用な人なら誰しもやりそうな作品だが、柔和な表情を含め、なかなか好感が持てる仕上がりになっていた。国の威信をかけての作であるからにはそれは当然で、また国民性も出ているのだろう。両陛下が国内外を旅をした先々で献上されたそうした美術工芸品や、両陛下のさまざまな式典で招待客に引き出物として用意されるボンボニエールと呼ぶ小さな菓子入れなどが、全部で100点ほど展示され、本展は現代工芸展の側面もあった。日本の各県に伝統工芸に携わる人がいて、彼らの腕の見せどころとして両陛下への献上品がある。伝統工芸の技術を絶やさないためにも天皇が各地へ訪れることの意義は大きい。また美術工芸に携わる職人は都道府県によって人数に大きな差があって、ほんの数人しかいない分野もあるはずだが、そうした人々の存在が本展によって知られるという意義もある。筆者が知らない各地の伝統工芸品がたくさんあったが、どうしても気になるのは、美術工芸の王国である京都だ。たとえばどの県か忘れたが、あまり歴史のない伝統工芸の献上品として友禅の額絵があった。絵としてはさっぱり面白くなく、また京友禅のような長い歴史もないが、天皇に献上出来る機会であるからにはそれなりのものを作らねばならない。その気概は見えた。そして京都から何が献上されたかと気になったが、チラシに印刷される清水焼の「源氏物語猪口」しかなかったように思う。京都には多くの工芸があるが、それらがこぞって献上すると他府県の作品が霞むかもしれず、京都らしく遠慮しているのかもしれない。ボンボニエールは20種類ほどあったと思う。同じ形のものはないが、どれも似た感じ形と文様で、工夫するのに限界があることが伝わった。銀製が大半で、稀に磁器があった。素材を変えれば形にも変化が生まれるだろうが、ガラスや布、木製では銀の高価さは演出出来ない。皇后が繭を飼うニュースはよく報道されるが、皇后手製の蚕が繭を作る藁製の寝床は興味深かった。また淡い黄緑色をしている山繭を初め、色の違う数種類の絹糸が美しかった。