雲が多い空だが、雨は降らないだろうと思って昨日は市バスに乗って出かけた。するとすぐに空がひどく黒くなり始め、20分ほど経つとバスのフロントガラスに雨粒が目立ち始めた。

筆者も家内も傘を持っておらず、どうしたものかと心配していると、5分と経たずに真上にあった真っ黒な雲が消え、青空がところどころに覗いた。真冬なので大雨になることはなく、むしろ乾燥し過ぎている。吊るしたままの干し柿はとても小さくなって、スルメよりも固くなった。去年は柔らかくて大きい間に1個ずつラップして冷蔵庫に保管したのに、今年はそれを忘れた。とても硬くなった干し柿を毎日1個ずつ紐から外して齧りながら、筆者はその干し柿が高齢者のように思える。鮮やかな柿色がどく黒く変化し、そして歯が立ちにくいが、噛みちぎってしがんでいると甘味が出て来る。繊維の量は生の時と同じで、変わったところは水分が飛んだことだけで、また充分乾燥するともう傷がつかない。生や半生ではすぐに傷がつき、そこから腐ることもある。生の柿はそれはそれでいいが、干し柿は日持ちし、生柿にない味が出て来る。そう思うと高齢になることも面白い。厄年などにもう関係のない年齢というのは、生きることの呪縛から解放されたようで気楽なものだ。ただし、それは体が言うことを利く間のことだ。寝たきりになっても自分の部屋で好きなものに囲まれていれば筆者は幸福と思っているはずだが、誰かに世話をかけるようになれば別の場所に移される。そこには自分の好きなものはほとんど何もない。昨日は母を見舞ったが、新しい病院に移って元気を取り戻したのはいいが、自分のものがほとんど何もない殺風景な個室だ。認知症はかなり進んでいるが、昨日は筆者の名前をはっきり呼んだ。また筆者や家内の持ち物にしきりに興味を示し、カラフルな服装や袋物に関心のあった昔のままだ。そのため、次回訪れる時は見て楽しい何かを持って行こうと思う。筆者が90になって同じように病院に入っても、音楽は終日聴きたいし、読書もしたい。それが出来なくなればもう生きていても意味がないが、呼吸している間は無理にでも生かされる。厄祓いに門戸厄神にお参りするのはいいとして、ぽっくりと死ねることを願う高齢者も多いのではないか。70年代だったか、TVの特集番組でぽっくり死ぬことを願う寺社が紹介された。インタヴューに応えていた80代とおぼしき小柄なお婆さんはその後何年も生きなかったであろう。高齢になると物欲もほとんどなくなり、誰にも迷惑かけずにさっと死にたいというのは、とてもさびしい話だが、きれいに死にたいと思っているのはせめてもの最後の美しい望みではないか。3週間前は鮮やかな色であった柿が、今はしわくちゃでこれ以上は小さくならないという干し柿になった。人生も同じようにとても短い。

昨日門戸厄神がどこにあるのかをネットで調べた。西宮北口から一駅先の門戸厄神駅前から西国街道を北に250メートルほど進み、西に500メートルの山手だ。東光寺という真言宗の寺で、境内は小高い丘の東面に南北に広がる。西側の山手には大学があり、昔はそこも領地であったかもしれない。厄神堂の裏手つまり西側に回る小道があって、そこに入るとすぐに朱塗りの鳥居が見える。稲荷社だ。神仏習合時代と同じ状態が保たれている。この鳥居の存在によって門戸厄神を神社と思う人もいるだろう。それに「厄神」という神様であるからには仏の寺ではなく神社と勘違いするかもしれない。門戸厄神のホームページの写真には、山伏の姿が大きく写っている。これは弘法大師に因む寺で山岳信仰と関係があるからだが、護摩木を焚いて祈祷する。また厄神明王は不動明王と愛染明王が一体化したもので、空海は像を三つ造ったとされるが、現在残るのは門戸厄神のみで、秘仏として厄神堂に祀られる。愛染明王も憤怒の形相で、それが同じ怖い顔の不動明王と合体しているからには、だいたいどのような像なのかわかるが、両頭愛染明王と呼ぶらしい。高野山真言宗別格本山とされ、格式の高さがわかる。稲荷社は商家がお参りするためには必要で、鳥居や社が立派であることも納得出来る。今日の最初の写真はちょうど参拝客が途切れた時に撮った。背後は崖で、社は階段の上にあって鳥居の前に立つと見上げる形になる。それで角度を変えて2枚目を撮った。社の扉の前に一対の白狐の像がある。3枚目は参拝客の邪魔にならないように斜めから最大ズームで撮り、さらにトリミングした。大きな丸い餅、立てた大根、横たえたサツマイモが見えるが、ワンカップ大関は少々艶消しだ。気になった厄年を門戸厄神のホームページで調べると、男女ともに還暦が最後の大きな厄で、その後は7,8年ごとに小厄がある。つまり、還暦まで生きると残りの人生は何も気にせずにおまけの人生と思えばよい。であれば、筆者や家内は門戸厄神にお参りする必要はないようなものだが、小さな厄はあるし、またその小さな厄がきっかけで大病から死に至るのが高齢者の特徴だ。その代表はつまづいて倒れ、骨折することだ。それが寝たきりの始まりの最大の原因とされる。よく歩く筆者は常にその危険があるが、家に籠り切っていると運動不足にから別の病気になる可能性が大きい。とかなんとかあれこれ気にすることが最もよくなく、好きなことを好きなようにするのが一番よい。家内はそういう筆者をつくづく呆れ顔で見ながら、「よくもまあ、その年齢まで好きなことを無茶苦茶にやって来たね」と言うが、全くそのとおりで返す言葉がない。また家内は筆者が毎日元気で不満を言わないことにそれなりに満足しているが、今日は「わたし、本当にアホやいうことがわかったわ」とえらく雲行きの怪しいことを言う。