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●『山田脩二の軌跡-写真、瓦、炭…展』
神戸まで出かけるのは少々億劫であるし、この展覧会には関心もないので行かないつもりであったが、天気がよかったので、18日に思い切って出かけた。伊丹と大阪にも回って別の展覧会を見たがそれについては後日書く。



●『山田脩二の軌跡-写真、瓦、炭…展』_d0053294_013867.jpgこの展覧会のチケットやチラシには、「”人生、焼きが大事。”-カメラマンからカワラマンへ。」という文句が赤で目立つように配置されている。この洒落が山田脩二の人柄や展覧会の様子をよく表現している。さて、阪急電車の王子公園駅で下車して海に向かって歩いて行くと兵庫県立美術館があるが、前にも書いたように、昔は反対の山側に5分ほどのところに近代美術館があった。その開館当初から筆者は訪れていて、お気に入りの美術館であったが、阪神大震災で被害を受けた。すぐに修復されて元どおりになったが、もっと大きい美術館を建てる計画が上がり、現在の県立美術館が出来た。そのため近代美術館は県立美術館の分館という位置づけになったが、県立美術館が出来てからは全くその前を通らなくなったので、今はどんな様子か知らない。王子公園駅の改札を出てすぐのところにある地図でざっと測ると、駅から近代美術館までの距離の4、5倍のところに県立美術館があることがわかったが、確かにけっこうな距離で、何となく腹立たしい。市バスは通っておらず、またタクシーを利用するほどの距離でもない。だが、老人ならとても行く気力が湧かない距離だ。駅前から専用バスを発着させるなり、何らかのアクセスの工夫がほしい。また美術館に着いても、企画展用の2階の会場に行くまでがややこしい。美術館内部が迷路のようになっているのだ。外観もさっぱり美的センスがなく、ただやたら大きい四角い箱で、安藤忠雄には悪いが、筆者が知る中では最もわくわく感が起こらない美術館だ。海に面しているのが多少の売りになっているが、海の向こう側は殺風景な倉庫群だ。まともに顔を向ける気分になれない。大阪港に面しているサントリー美術館とは差が大きい。悪条件はさらにある。美術館周辺に食事が出来る場所がほとんどない。今回も駅前をあちこちうろつき、よほど水道筋商店街の奥まで行こうかと思ったが、時間がもったいないので、国道2号線のとある有名ファミリー・レストランに入った。ところが、そこで1000円ほど出して運ばれて来た料理が全く残飯同然の見てくれと味で、二度と訪れないと決心させてくれた。250円の立ち食いそばの方が10倍は美味しい。
 と、まあそんなことで、ますますこの美術館に訪れる気が失せるのだが、今回の展覧会はそこそこ面白かった。2階に上がるエレヴェーター前に立つと、すぐに扉が開いて中から顎髭をたくわえたおじさんが笑顔で数人の知り合いらしき人々を引率するような格好で出て来た。まもなくその人がこの山田脩二氏だとわかった。かなり小柄だが、とても快活な雰囲気に満ち、笑顔を絶やさない人柄だ。会場には氏の同世代の男女の知己がかなり訪れていて、氏のつき合いの広さを示していた。氏は西宮出身だが、今は淡路島に住んでいるので、兵庫にすれば地元の作家だ。県立美術館が地元の作家に光を当てるのは当然で、そういつも海外から借りて来た絵ばかりを並べる企画展を詰めるわけにも行かない。あまり人が訪れない2月の寒い時期であれば文句も出にくいだろう。だが、現役の作家は無数にいるので、このような途轍もなく大きな美術館で現役の作家の大個展を開催するとなると、きっと一部でいやみや反対を言う人があるかもしれない。それはいいとして、氏の回顧展をとなると、氏の知名度が問題で、写真家としての前半生がどの程度人に知れわたっているのか当然審査の対象になったであろう。そんな内部事情はどうでもいいようなものだが、写真家はたくさんいるから、県立美術館で堂々と紹介するからには、それに見合った作家歴というものがなくてはならない。それはどこそこの写真展で受賞したとかといったものでなくてもよい。今現在の時点で振り返ってみて、氏の作品が価値あるものかが重要だ。そして結論から言えば、これはかなり面白かった。よくぞ記録しておいたと思う写真がたくさんあった。
 氏は今年66歳だ。まだまだ現役バリバリの年齢だ。1970年代に全国津々浦々をカカメラを持って行脚し、「日本村」という写真シリーズを手がけた。1982年からは淡路島の津井に住んで、カメラマンならぬ瓦を焼くカワラマンになった。2005年から今年にかけてはかつて70年代に訪れた地を訪れて写真に撮る「日本村、ネクスト」を手がけている。会場の説明では、「20代終わりまでは写真、デザイン中心に広くその周辺の実務経験と修業、30代は自分のスタイルをもった写真家、40代は瓦、土管の産地で大量の土を焼く、50代は雑木林で木炭づくり」とあったが、こうした人生設計を氏が前もってきちんと立てて過ごして来たのかどうかは疑問だが、限りある人生を年代に応じて仕事を変えるのは潔くてよい。男なら大抵はそういう生き方を望んでいる。同じ仕事を長くやっているとそれなりに深い味を覚えて来るのも事実だが、一方で、きっぱりとそれを捨てて全く新しい何かをやってみたいと、人生の中で一度や二度は必ず思う。ところが子どもや妻がいて、いや、それを理由にしていつまでも同じ仕事に就くことを誇らしい義務として自分も周囲も欺く場合がある。本当はそれはただ勇気がないだけであることを内心知っているのだが、それを口にすると負けと思っているから、転職を繰り返す人を謗ったりする。だが、山田脩二という人はそんな自己保身など全く考えないような男っぽい人のようで、どう生きれば一番格好よくて、また自分が納得出来るかをよく知っていると思える。カメラマンからカワラマンへの転職は何の必然性もないように見えるが、土を焼くのは行動的な、つまり肉体を駆使する男っぽい仕事であるし、氏の70年代の写真家としての仕事も同じものであった。人とよく酒を飲み交わし、その翌日はまた写真家としてどんどん撮影するという生き方は、熱気ある若い時であるからこそ可能なやり方だが、そんな内面の熱気を時代の熱気にぶつけることで獲物として手に入れたのが氏の70年代の写真だ。時代というものと氏の人生における沸騰期がちょうど巡り合わせになったゆえの成果だ。
 最初のスライド上映の部屋を過ぎて次の部屋には、比較的小さな写真や資料がびっしりと展示されていた。雑誌に載った特集などから氏の写真家としての経歴がよくわかる仕組みで、そんな中、ある小学生の少女の顔を撮影した数点が目を引いた。汚れた顔で、鼻水も垂らしているような田舎の子だ。警戒し、はにかんでもいる最初の表情が、最後のショットでは笑顔に変わっている。こういう素朴な少女を被写体に選んで組写真にすることは他の写真家もやっていることとは思うが、ここには氏の純朴なものに対する愛情がよく現われていた。今ではこんな少女を田舎で見ることは出来ないに違いないが、それを思うと写真は後々になってこそ意味を大きく発揮して来るものと思える。それは絵画と同じ、あるいはそれ以上だろう。氏が写真を始めた頃どんな顔をしていたかもこの部屋の写真からよくわかったが、それで思うのは髭の有無は別として、現在の風貌とかなり違うことだ。70年代は呑み屋で喧嘩を辞さないこともあったそうだが、そんな人生を重ねる間に氏は現在のような風貌を作り上げて行った。芸術家の顔は芸術作品と言えるが、その意味で氏の作品の本質は若い頃と現在の顔を見比べることでわかる。芸術家は若い頃は大抵尖った表情をしているが、それが次第に本性を見せ、顔や姿全体から本人の芸術にふさわしい何かを発散するに至る。同じ部屋にあった資料の中に「表彰状」があった。昭和57年3月6日の日づけで、ザ・オレンジ・ページの馬場禎子とその仲間が授与している。氏の酒飲み仲間の知己が氏を讃えるために冗談で作ったものだ。そこからは氏が気の置けない人々とよい関係を築いて活動していることがよく伝わる。写真は写真家が人間をどう見ているかを伝える。氏の写真からは人間に対する愛情が見られ、風刺や斜めに見つめる精神は感じられない。
 次の天井が高い広大な展示室ではモノクロが写真が大きく拡大されて四方の壁面をびっしりと埋めていた。写真は便利なもので、ネガはコンパクトなものであるから保存するのにさほど場所は取らない。しかし、作品としていくらでも拡大出来るから、このような大きな展示室でも充分に壁面を埋めることは出来る。これが小さな工芸品を作る作家であれば、一生かかってものにする作品でもほんの数十平方メートルの面積があれば展示が可能だろう。この作品の大きさということはまだ議論し尽くされたことではない。同じ写真をべた焼きで見るのと、縦3メートルほどに拡大して見ることの間に、その写真の芸術性がどう増減するのか、写真家が写真のサイズを決めない限り、写真は写真家の意思を越えていくらでも新たな可能性を探り出されるものになり得る。氏としても今回の展覧会で初めて大きく拡大した写真がたくさんあったはずで、それらを見ながらどんな感慨を抱いたかと思う。大きな展示場であったからこそそうした一種の実験の機会も得られたから、前述したことを翻すつもりではないが、馬鹿でかい展示室は新たな芸術の試みに役立つことは確かにある。大展示室の片隅では映像の上映があった。建築家の磯崎新と写真家の篠山紀信との談笑や、すでに亡くなった氏の写真の師のその奥さん宅で食事の応対を受けながら半ば酔って話している様子をしばし見た。前者では、氏が撮影した70年代の新宿駅西口の人が溢れ返る写真や最近の「日本村、ネクスト」を磯崎と篠山が氏を間に挟んで誉めていて、写真家としての氏の業績が歴史的に価値あるものであることをよく伝えていた。それは高名な人々が言わなくもわかるもので、圧倒的な数の人の渦を撮影した69年頃の写真は、当時の世相をよく知っている者でも今さらに驚かされる。撮影当時はそうは思われなかったであろうが、今は日本からそのような熱気がすっかり失われてしまい、一種の懐かしさも手伝って、写真が異様な迫力を内蔵しているように思える。氏は人の多く集まるところが好きなようで、この人なつっこさが原動力となって写真家としての仕事に駆り立てて来たようだ。大展示室の出口付近では、70年代にニューヨークや上海に出かけてダウンタウンを中心に撮影した写真が展示されていた。それらの仕事も人間好きという点では日本を撮影したものと何ら変わらない。
 次の部屋では瓦や炭を使ったいわばインスタレーションで、瓦の銀色に輝く肌や断面が面白い視覚効果をもたらしていた。だが、正直な話、この瓦の部屋は美術館という空間では少し違和感があった。野外に置いてこそ本当の味を発揮するのではないだろうか。チケットやチラシに印刷されているが、縦方向に敷き詰められた瓦のうえに活けられたすすきの穂の写真は、その背後に樹林が見えるからこそ風情がある。また、氏は瓦焼き職人であって、特別な形の瓦をデザインして焼く造形作家ではないようだ。写真の中には現代的な洒落たデザインの鬼瓦を浜辺に数個並べて撮ったものがあって、それらの一風変わった鬼瓦を氏が作ったかと思ったがそうではないようであった。氏が瓦界にあって一体どのような斬新な仕事をして来たのかそうでないのかの説明が乏しく、この点に限っては不満が残った。写真家は作家であるから、その延長として瓦でも今までにない特徴的な瓦を焼くというのでなければ、カワラマンへの転身はカメラマンからの退行と思われる。だが、東京世田谷の用賀で、街中に水路を作り、そこに瓦を敷き詰めて子どもたちが安全に水遊び出来るようなプロムナードを作ることが進行中で、その瓦は氏が焼いたものだ。つまり、建築の分野で氏の瓦は注目されているとのことで、そこは並みの瓦職人とは違うわけだ。淡路島では今から約410年前に瓦の製造が始まったそうだが、鬼瓦は例外として、形の変わった通常使用の屋根瓦を思うのは素人考えであって、実際は完成された形である瓦を新しい形のものにするのは非現実的なのであろう。あくまでも用に徹し、そのうえで、それらのあたりまえの瓦を用いて何か別のものを組み立てるというのが氏の仕事になっているに違いない。なぜカメラマンからカワラマンになったかの問いに対して、「ぼくはこれまでいろんな場所を撮ってきたんだ。日本の美しい景色をつくっているのはやっぱり瓦屋根だよね」と答えているが、これは本音だろうか。確かに瓦屋根が連なる景色は日本独自のものとして美しいがもはやそれはほとんど風前のともし火に思える。阪神大震災では瓦屋根の家が大被害を受け、重い瓦屋根は危険であると言われるようになった。京都も昔々は瓦屋根が美しい町並みであったが、今ではわずかにしかそれは残らない。そんな京都を知ってのことか、氏には京都を撮影した写真がほとんどなかったのではないかと思う。
by uuuzen | 2006-02-24 00:02 | ●展覧会SOON評SO ON
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