天気がよかった10日の午後、大阪歴史博物館をゆっくり見た後、地下鉄で難波に出て高島屋に行った。この展覧会は大阪のみの開催だったようだが、なかなか見応えがあった。本来ならば公的な美術館が開催すべき意欲的なもので、百貨店での展覧会も侮れない。
島成園については去年の前半期に何かの雑誌で記事を見かけた。それが何であったか思い出せない。成園の大阪での足跡を探訪する文章で、珍しい画家のことを調べる人がいるものだなと思った。成園の名前を最初に知ったのはいつのことか記憶にないが、特に意識するようになったのは2003年5月に滋賀県立近代美術館で開催された『北野恒富展』で買った図録においてだ。恒富は昔から大いに気になっていた画家であるので、この展覧会には喜び勇んで出かけたが、恒富の本格的な展覧会が開かれれば次に同時代に活躍した大阪の女流画家展の番であるのは当然で、この展覧会はそんな期待に応えようとするものだ。大阪のかつての画家を紹介する機会はもっと頻繁にあってよい。大阪が京都や東京に劣らぬ文化都市であることを日本中に知ってもらうには、積極的な紹介を継続する以外にはない。それはさておき、会場には多くの人が訪れていた。そんな中、70代後半とおぼしき紳士が、係の人から応対を受けていたが、ひょっとすれば展覧会の開催に尽力した人物かもしれない。過去の、しかもあまり紹介されたことのない画家たちの展覧会を企画する時の苦労は想像にあまりある。作品の所在をつきとめ、出品交渉をし、一方で図録のための撮影や文章をまとめる必要もある。準備には2、3年は要するのではあるまいか。そのようにして結果的に多くの人の間に新しい認識が広まれば一応の目的は達せられるが、それは一重に画家への愛情があってのことだ。展覧会がよいものであったと評価され、図録が後々まで資料として役立つものとなればよいが、なかなかそんな成功と呼べる場合ばかりであるはずはない。だが、どんな展覧会にも企画者の思いはある。それを考えれば、筆者のこうしたブログの文章も自然と力が入る。それは自分の文章でもそれなりにきちんと読んでほしいからだ。簡単に書くことはいくらでも出来るが、そうすれば結局は自分が簡単に見過ごされてしまうのが道理だ。
昨日にも書いたことだが、柳兼子は画家を目指しても男にかなわないと考えて声楽家になった。ちなみに兼子は明治25(1892)年、成園はその翌年の生まれで同世代だ。なお、恒富は明治13(1880)年、代表的女流画家の上村松園は明治8(1875)年に生まれている。こういった年齢差は時代がのんびりしていたと思えるような当時であっても実際は今とさして変わらず、世代間の意識の差を考えるうえで重要な事項となる。兼子とほぼ同年齢の成園が女流画家として名声を確立したことをどう捉えるべきかだが、冷やかに見れば成園は恒富の陰に隠れた小粒な存在でしかないと言えるし、あるいは直接には恒富と師弟関係になかった成園は独立で開花した一個の大きな才能と見ることも出来る。こうした評価は時代とともに揺れ動く。それはひとまず置くとして、東京とは少し様子が違って、当時の大阪は女性の活発な動きをそれほどに許容する特殊事情があったとも言えるだろう。その理由を考察するうえでもこの展覧会は現在的な意義を持っている。前述の恒富展の図録には、恒富の実に面白い文章が載っている。昭和11年のものだ。天王寺にある大阪市立美術館の竣工に際して寄せられた文章の冒頭で、今から70年前になる。冒頭部分を引用する。「大阪人に美術の観念が乏しいとは、よく云われる言葉である。そして又、誰もがたやすく云ひ得る言葉である。然し、此感情を切実に身を以て感じ、心底から嗟嘆の念ひをなして、大阪人は無理解だと、強く云ひきれる適任者は、何十念此土地に在って、芸術生活を持続してきた私共より外に、あるまいと思われる。大阪の人々が、一般に美術に無関心と云ふだけ位の事なら、少しく教養のある人なら、容易に出来る観察である。その無関心、無理解さが、如何に甚だしいものであるかは、矢張り大阪に永らく住んで、作家生活を経験してきたものでなければ、深刻な体験を持たない。如何に物質万能だとて、余りだと最初は情けない思ひがするが、はては憤激の念ともなり、やがてはあきらめに移り行くのである…」。ここに書かれていることは大阪人としては耳が痛い。この70年間、事情は全く変化していないと言ってもよいからだ。もうひとつ恒富の文章から引用する。「二つの問題」と題した大正12年のものだ。「現在の今の若い女性たちは、しだいに思想的に目覚めてきてゐる事は争はれない。成園、千種たちが芽を吹いた頃の彼女たちは、画も巧みであったし、纏まつてもゐたが、カナリ正直に、素直すぎた。それに比べると今の若い女性たちは、画の巧拙は別として、とに角内面的に自分の思想を表現することに努めてゐる。この点は、成園、千種の時代よりも顯著な進み方である。…大阪の若い女性たちは、何故にしかく優れてゐるかといふに、それはこの物質の都に於る男性たちへの一種の反抗的発奮であると想像し得られる理由がある…」。成園を初め、大阪の女流画家を温かく見守った恒富のこの言葉は彼女たちの思いを代弁しているに違いない。
大阪の女流画家の筆頭は成園として、チラシには「木谷千種・岡本更園・松本華羊・生田花朝ほか」と印刷され、今回は昭和初期までの美人画家を広く取り上げる展覧会となっている。同様の展覧会は筆者が知る限りはほぼ前例がないが、まずは画家をたくさんまとめて概観した後に、各画家に光を当てた展覧会が企画される方が人々には関心がうまく浸透するから、今回はとてもいい機会であった。結果を先に言えば、筆者は成園と花朝に注目させられた。他の画家たちは点数が少ないからかもしれないが、恒富の影響が感じられたり、典型的な美人画といった感じで印象に乏しかった。その点、成園は大胆かつ異質で、反逆精神が生半可なものではないことが一目でわかる。とにかくアクが強い。たとえばチラシやチケットに印刷されている「無題」という絵は成園の自画像だが、右の目の周囲に青いあざがある。これにはぎょっとさせられる。成園が本当にそのような顔をしていたのかと思われるかもしれないが、これは演出だ。それを知ると改めて成園の一筋縄では行かない屈折ぶりを知る。美しい女性をきれいに描く美人画にあって、これは尋常ではない。「あざのある女の運命を呪い世を呪ふ心持を描いた」と成園は言っているが、「無題」の題が評論家からは批判された。成園には他にも自画像があって、それは写真で見る成園と同様、美人ではないが、何事にもはっきりと自己主張する性格が見て取れる。今でもそのような性格の女性は無数にいるが、成園のような激しい絵を描こうとする例は少ないのではないだろうか。だが、その成園は大正9年末に電撃的に見合い結婚し、それからの絵はアクがすっかり抜けてあっさりした作風に変化する。今回はそのような絵も出ていたが、確かに別人が描いたかと思わせるほど反逆心は抜け落ちていた。結婚して情念の炎が鎮まったとでも言おうか、ここに女流画家が大成することの困難を改めて思う。
成園は堺の生まれで、大阪の島之内に育った。父は絵師、兄は図案家だ。20歳で「宗右エ門町の夕」、翌年は「祭りのよそおい」でそれぞれ文展に入選する。これ以降、美人画の常識を覆す衝撃的な作品で名声を確立し、京都の上村松園(1875-1949)、東京の池田蕉園(1886-1917)とともに「三都三園」と呼ばれるほどになる。大正4年までに文展に入選した20歳前後の大阪の無名画家であった木谷千種、岡本更園、松本華羊とは仲がよく、4人で「女四人の会」を結成する。成園の「宗右エ門町の夕」は現在所在先不明だが、「祭りのよそおい」は出品された。横長の絵で小さな女の子を4人描く。左のふたりは金持ち、中央はややそれより劣り、これら3人は一緒に床几に座っている。そして右端に離れて立つ子は貧しい身なりで3人を眺めている。中央の子もまた左のきれいなキモノを着たふたりを羨ましそうに見つめているのだが、いかにも女性しか見出せないような場面をうまくものにしている。まだ成園らしい作風とは言えないが、それでも胸にぐさりと響くものがある点ではすでに成園のものだ。成園の夫は銀行員で、上海支店に転勤になり、成園は大正13年から昭和3年までの5年間を同地と大阪を往復して生活する。戦時中にかけては大連などにも滞在したが、最も絵を描いたのは上海時代だ。今回は中国女性を描いた絵が出ていて、同一モデルを使用して同一の構図で描いた色違いの絵があったりして、これは日本画としてはよくあることだが、構図を吟味し尽くす作風がよくわかった。前述した「無題」も同様で、自分の背後に置く画中画における花の下絵が黒いキモノを着た成園と見事に釣り合っていて、絵のどこにも無駄や隙がない。見合い結婚する直前の作品としては大正9年の「伽羅の薫」があった。これもまた一見して記憶に深く刻まれる作品で、島原の花魁の立ち姿をかなりデフォルメして描いている。顔はモジリアニの影響ではないだろうが、かなり細長い。またキモノの濃い赤と黒の対比はいかにもどろりとして時代の空気を伝えるが、この味わいは恒富にもないもので、甲斐庄楠音(1894-1978)を思い出さないわけには行かない。成園より1歳年下の甲斐庄の画家デビューは大正7年で、「伽羅の薫」が甲斐庄に与えた影響を想定することも出来るが、大正10年には甲斐庄は同じく花魁を描いて「伽羅の薫」をさらにどぎつく、リアルにしたような「春宵」を描いているので、時代がそうした、つまり土田麥僊が言う「穢ない絵」を生む気分に満ちていたとも考えられる。これはまた別に考察すべきことで、ここではこれ以上は触れない。
「女四人の会」は大正4年に西鶴研究会を組織し、翌年は「好色五人女」をテーマに西鶴研究作品展覧会を開催した。50点以上の作品が並んだというが、大阪の文化を誇りに思う点で、これは実に見上げたことだ。同じようなことを今の大阪在住の同世代の女性画家がやろうとするだろうか。大阪の文化沈下は大正や昭和初期よりむしろ悪化しているかもしれない。会場では福富太郎コレクションから借りて来た作品が多かったが、福富が大阪の画家にまで手を広げて収集していることは知らなかった。水谷千種は「浪華女性画壇のリーダー」と評されている。堂島生まれで、少女期に2年間シアトルで洋画修業し、帰国後に成園の文展入選を知って日本画に転向した。上京して池田蕉園に師事し、大阪に戻って大正8年に恒富門に入った。大正4年、20歳で「針供養」が文展に初入選し、京都の菊池契月の画塾に通った。大正9年に近松研究家の木谷蓬吟と結婚して自宅に八千草会を設立、50名ほどの門下生を抱えて、大阪と京都で活躍した。恒富の作風に似ていることもあって代筆疑惑が新聞や雑誌を賑わしたこともある。今回出品された「芳澤あやめ」は修復を経て90年ぶりに公開されたもので、初代坂田藤十郎と同時代に活躍した上方の女形をデロリとしたタッチで描く。6曲屏風「をんごく」は、チラシにも印刷されているキモノ姿の女性が盂蘭盆に通りを練り歩く子どもたちを格子越しに見つめる様子を情感豊かに描き、画家の才能をよく示している。「浄瑠璃船」は大正15年作で、菊池風の洗練さが見られた。いずれの絵もキモノ姿の人物を描くので、今はもうこの伝統は完全に途絶えた。緻密なキモノの模様や室内の調度品を描く中で画家は技術を向上させ得たが、今や日本画ではそのようなかっちりと描写する能力は最優先されない時代だ。だが、筆者が圧倒的に絵が上手でまじまじと見つめたくなる絵は、そういう基本的な能力を持ったうえで描かれた作品だ。そんな典型を今回は生田花朝に見つけた。花朝は千草亡き後、大阪の女性画家を率いた存在として知られる。大正14年、36歳で「春日」によって帝展に初入選し、翌年「浪速天神祭」が特選になるが、女とわかって取り消しされかかった。今回はこの「浪速天神祭」、昭和2年の「四天王寺聖霊会図」、縦80センチほど、横は4メートルはあろうか、昭和12年の額絵「泉州脇の浜」、そして子どもたちの遊ぶ様子を描く昭和38年の「春昼」が出ていたが、どれもパノラマか鳥瞰図的に緻密に描き込まれたもので、このような画家が存在していたことに驚嘆した。また、池田遙邨の大正15年の「南禅寺」との関連を思わずにはいられない作風であることも興味深かった。ぜひとも個人展覧会を開催してほしい。まだまだ発掘して世に紹介すべき女流画家が大阪にはある。そんな圧倒的に層の厚かった大阪の大正から昭和にかけての時期について、今後さらに展覧会で検証してくれればと思う。