むかつくという言葉を立腹の意味に使うが、あまりいい響きではなく、筆者は使わない。「むかつく」は「むかむかする」と関係があると思うが、「気分が悪くて吐きそうなこと」の前部分の「気分が悪くなる」を立腹よりは少しましな心の状態に使い始めたのであろう。

言葉は時代とともに変わり、新しい言葉に拒否反応を覚えるような筆者は古い人間だが、実際に古いので古い表現でいいではないか。また古い存在が顧みられないのは、たとえば老人が敬われないことに反映しているが、その延長上に歴史を軽んじる考えが生まれそうだ。それは違うという意見があろうが、古いとはなだらかに古さの違いがあって、その境界は曖昧であるから、気づけば今の若者もすぐに古くなる。ま、このことはしばしばブログに書いているが、今日は10月14日に家内と見た西宮市大谷記念美術館での『土方重巳の世界』展について書く。彼の名前を知っている人はあまりいないと思うが、キャラクター・デザインの走りと言ってより佐藤製薬のオレンジ色の象さんの「サトちゃん」を知らない人はいない。筆者はこれが世に出た時のことをよく覚えている。名前を一般公募し、「サトちゃん」に決まったが、佐藤製薬そのままの気がして、能がないと思った。今もその思いは変わらないが、「サトちゃん」は「砂糖ちゃん」を連想させ、その甘いイメージはかわいらしい象のキャラクターに似合う。この「サトちゃん」は1960年の最初のデザインのものが今も引き継がれているかと言えば、企業のロゴ・マークと同じように、時代の感覚に合わせて少しずつ形が変えられて来ている。最初に書いた言葉の流行と同じで、時代の先端のようなデザインがいつの間には古臭く感じられ、細部が変更される。だが、その古さを愛好する一部の人がいて、また今は昭和のレトロ・ブームもあって、最新の「サトちゃん」よりも初代のそれを愛好する人が多いでのはないか。それはともかく、土方の名前は覚えられなくても、彼が生んだ「サトちゃん」は佐藤製薬がある限りは街中で見かけるから、それは作者冥利に尽きる。「サトちゃん」は45歳の作品で、その後70歳まで生きるが、本展は彼の仕事の全貌をたどるものだ。この館では同じ兵庫生まれで一世代年上のグラフィック・デザイナーの
今中竹郎の生誕100年展を2005年に開催したことがあり、本展は土方の生誕100年から4年遅れたが、いわば開催されて当然の作家で、古いポスターや絵本を回顧して今後のグラフィック・デザインの動きをあれこれ考えるにはいい機会であった。まず誰もが思うのは、昭和にはパソコンがなかったので、文字も絵もグラフィック・デザインはすべて手描きであったことだ。ただし、写真をそのまま使う製版は土方のポスター・デザインにもやがて表われ、長かった昭和に印刷技術において大きな変化があったことがわかる。
グラフィック・デザインは印刷を前提としたその原画を制作することで、土方は現在の多摩美を出た後、東宝に入社して文化映画のポスターを手がけた。その頃の原画がよく残っていることに驚いたが、土方は版下を回収して保存していたのだろう。今回はそれと印刷物を並べて展示し、版下と完成作のわずかな違いが比較出来たが、戦前の文化映画であるから、ポスターからその内容を推定するしかなく、その意味でポスターが保存されていることは資料的価値が高い。それらのポスターは新聞紙を縦に半分にした細長いもので、たぶん異なる映画のポスターを数枚貼るのにつごうがいいサイズであったのだろう。文化映画は筆者が小中学生の頃にはまだあった。それが学校で上映されなくなったのは、NHK教育TVが番組を充実させたからだ。文化映画の定義は俳優が出て物語を演じる劇映画ではない作品のことで、ヒトラー時代のドイツが生んだ。日本はそれを取り入れ、戦意高揚のために作ったこともあるが、そうでない自然を記録した映画もあった。東宝を退社してからフリーとなり、映画史に残る名作のポスターを描くようになる。ところが、土方は当初は人物の顔を描くのが苦手で、女優が3人ほど並んだ場面を描いたものでは、3人がほとんど同じ顔に見えた。今なら写真を使うが、それを真似て手描きすると、省略の技法が使えるので、ポスター全体として好きな構成にしやすかった。また印刷するのに色数のつごうがあったが、白黒映画であってもポスターでは人物の顔をある程度色づけすることが出来たから、ポスターは写真に左右されない分、絵画に近いものとなった。つまり、実物そっくりに描く才能が求められたが、今のグラフィック・デザイナーはそのことを何とも思っていないだろう。写真を切り貼りし、そこに用意されたタイポグラフィを嵌め込めばすぐにポスターは出来上がる。だが、土方の時代は文字は手描きで、それだけに個性を発揮する場があった。その後。レタリングと称してポスターの文字を専門に手がける職業が生まれたが、土方は文字も絵も描き、その分、ポスターは隅から隅まで自分の目が行き届いた表現物となった。それは手間がかかり、また才能を要することだが、パソコンはその双方をあまり必要としなくなった。その結果、個性が薄くなったが、それは強い個性を求めない時代でもあって、土方のポスターはとても古臭いものに見えるだろう。つまり、パソコンを使えばもっと細部がしっかり、くっきりとしたものになるとの考えだが、それは土方のポスターあってのことをわかろうとしない、おっちょこちょいの考えだ。つまり、古いものが蓄積されたうえで現在のものがあり、古いもので時代を画して来たものを侮ってはならない。今までになかった全く新しいものと思っても、たいていは同じ着想が過去にある。
会場で白黒映画『蜂の巣の子供たち』が上映されていて、それを10分ほど見た。この映画のポスターを土方が描いた。山吹色地に中央に赤い丸を描き、日本の国旗に見えなくもないが、赤丸の周囲に戦争孤児たちのイラストがある。また右下に片足のない杖をついた大人の男性も描かれ、それは戦争でそのような姿になった人物だろう。60年代になって片足のない人を使う映画をたまに見たが、それは足がないように見せかけた演技で、それに気づいて安心しながら、嘘くさいと子ども心に思ったものだ。というのは、当時はまだ繁華街に行くと、手足のない元軍人が白い服に身を固め、募金箱を首からぶら下げて数人並んで立っていたからだ。清水崑はその悲惨な現実を劇映画『蜂の巣の子供たち』に持ち込んだ。本物の戦争孤児を8人ほど集めて撮った、1948年の作品だ。この16年後に東京オリンピックの記録映画を撮ることを思えばなかなか興味深い。筆者が見た場面は、小柄な男子が同じ年頃の子どもを背負って草が生い茂る急な斜面の山を登って行く様子を執拗に捉え続けたもので、撮影も同じように大変であったことが想像される。今ではまず撮影しないような過酷な場面がゆったりと長く続き、時間があればもっと見たいと思いながら、その自然豊かな山の場面だけで何となく胸がいっぱいになった。ようやくたどり着いた場面で大人が登場し、背負われた子が死んでいることがわかるのだが、当時はそういうことは珍しくなかったはずで、小柄なその少年の力強さ、健気さに感じ入った。将来は有名な俳優にしようと考えている親がかりの現在の子役が同じ役を演じろと言われてもまあ無理な話で、体力もなければ真実味もない。だが、孤児を使っての撮影は記録映画でない限り、今では非難する人が多いかもしれない。今回この映画を大きなスクリーンで上映したことは、土方にとってこの映画のポスターの仕事がひとつの契機になったからではないか。土方は他の映画やバレエ、オペラ、芝居などの舞台芸術のポスターやデザインも手がけるが、飯沢匡と出会って1959年には子ども向けのTV番組に力点を置くようになる。NHKの『おかあさんといっしょ』がそれで、これは戦争孤児の実態を知っていた土方にとってはその悲しみを埋めるためにぜひとも参画したい企画であったと想像される。翌年同番組で始まる人形劇「ブーフーウー」における豚のキャラクターは土方のデザインだが、それは数年後のエースコックのワンタンメンのキャラクターとそっくりで、土方の先駆的な才能がわかる。戦後日本の成長に伴なって明るいイメージが求められ、土方はその時流に乗った。それはまた大人から子どもへと視点を移し、その後の「かわいい」文化の基礎の一端を築いたことでもあった。晩年の絵本の仕事はその延長上にある。本展のチラシやチケットのイラストは67年と74の絵本の原画を組み合わせたものだ。