指を見ればその人がどのような仕事をして来たかがわかるとされる。筆者は息子が小学生の頃、家内が外に出て働いているので、学校の行事によく参加した。

PTAの役員にもなったが、男は筆者くらいで、奇異の目で見られていたであろう。卒業式の準備のために5,6人が班になって集まる機会が何度かあり、みんなが仲よくなった頃、ある奥さんが筆者に「きれいな手をして!」と言うと同時に、癪に障ったような仕草で手をぴしゃりと叩いた。家内は自分の両手が年々痩せてごつごつし始めた時、「毎日の炊事洗濯でこうなった」と言ったが、今でも筆者の手指は昔と変わらないことを家内は指摘する。そして家内は続けて、京都に出て来た頃に勤めていた不動産屋の主の奥さんであるお婆さんが、客が来ると必ず両手の指を見ていたことを話す。その人が役所勤務かサラリーマン、あるいは肉体労働者かがわかるからだ。不動産屋は家主の手前、肉体労働者にはなるべく貸したくないのだ。家内はこんなこともよく言う。「TVの俳優は全員手がきれいで、労働者役をやっても現実味がない」。それほどに手は人生を表わすが、男の手がいつまでもきれいであるのは、女にとっては迷惑だろう。用事を何もしてくれないことを証明している。とはいえ、家内は筆者の手を見て、「きれいやな!」と言って叩きはしない。それどころか、きれいな手をさすって嬉しそうだ。肉体労働者の雇用者の手指がどうかと言えば、今はゴルフは金さえあれば出来るから、肉体労働者風情の社長はたくさんいる。そういう人の中にゴルフ以外の趣味を持っている趣味人は多いだろうが、茶の湯をたしなむ数寄者となると話は別で、今では金持ちでもそういう人は稀だろう。すっかりゴルフが幅を利かし、伝統ある日本文化に関心を寄せる社長は珍しがられて敬遠されるが落ちだ。筆者が染色工房に勤務し始めた頃、そこを託されていた主宰者は、暇を見つけて竹を小刀で削っていた。筆者はそれが茶杓であることくらいは知っていたが、その主宰者は中学生の頃に竹筒に漢詩を刻むなど、文人の素養があった。名古屋で医者をしている父親が一度工房にやって来た。息子に有無を言わさずに小さな頃から文人の精神を叩き込んだところ、さすがに眼力と風格があったが、武士気質の家風はその後も続くとは限らない。大学の教授にならなければたいていはゴルフ三昧の平凡な会社員になる。だが、ゴルフをする人たちはそれが昔の茶の湯と同じ、人との交際に役立つ現代の大切な文化と言うだろう。では、昔あった茶の湯で関係があった数寄者はもう全滅したのか。そうであれば今日紹介する展覧会は誰のためのものか。こういう展覧会が開催されるのは、茶の湯が安泰で、それなりに数寄者がいるからだろう。MIHO MUSEUMの内覧会には美術館や大学の関係者らしき人が目立つ。彼らの中に茶の湯をたしなむ者が多く、それで本展が企画されたのだろう。
本展で最も印象に残ったのは、益田鈍翁の食に対する考えだ。それが図録にも載っている。簡単に言えば御馳走より百姓の粗食を好んだことだ。これが茶の精神にかない、また健康を保つために欠かせないと考えた。筆者は食べるものにあまり関心がなく、腹がふくれれば何でもよい。また最近は食べる量もかなり減ってここ2か月で5キロも体重が落ちたが、かえって健康であることを感じる。これはかなり昔の話で以前にも書いたことがあるが、土光会長がNHKのTVで特集番組に登場し、土光氏は魚の干物が一番好物と言った。今はそれも高価だが、刺身よりは安い。その番組を見ていた家内の妹は「土光さんのような金持ちがそんな粗食であるはずがないやんか。嘘つきや」と言い放った。筆者は反論しなかった。家内の妹は高級魚介類を初めおいしいものを毎日のように食べ、50代に入る頃に病院通いが始まり、数え切れないほどの薬を飲むようになった。家内はそれを見て、「おいしいものばかり食べ過ぎたからや」と言うが、義妹は今でもおいしいものが食べたいと言う。筆者の従兄は、「人間はおいしいものをたくさん食べて早死にするか、粗末なものを食べて長生きするかやけど、おいしいものばかり食べて早死にする方がええわな」と言う。筆者はそれにも反論しない。人生の目的が毎日おいしいものばかり食べることと考える人がいてもいい。どうせ彼らは早死にする。話を戻して、三井物産を設立し、利休以来の大茶人と評される鈍翁は、何でも手に入るような大金持ちであっても粗食を旨とした。図録から引用する。「晩年の鈍翁は、茶の精神を以って日本の未来を案じ、常に後進・同輩の財界人たちに栄養過多による短命化を真剣に説いた。人に粗食を勧めるばかりでなく、自ら作物を育て研究し大規模な農業経営をも興した」。鈍翁が亡くなり、戦後の日本は長寿国となった。それは粗食では駄目であって栄養を充分に摂ったためとする意見が大勢を占めるだろう。だが、その長寿は医学のお陰が大きい。また長寿であっても薬を手放せない人は多い。鈍翁は90まで生きた。健康に気をつけるのはいつの時代でも同じだが、戦後は食の欲望が肥大化し、グルメ番組花盛りで、鈍翁が考えたのとは違う方向に日本は進んで来た。粗食を嘲笑し、金持ちは贅沢な食材をふんだんに使うという考えが支配的で、高度成長の果てに腐敗が進んだ。作物でも養分が過剰になるとよくないのと同じだ。満ち足り過ぎて何が最も大事かが見えにくくなった。MIHO MUSEUMは食材を自然農法で育てたものをレストランで提供しているが、それは鈍翁の考えに沿っている。本展を同美術館が開催したのは、鈍翁の茶の精神を絶やさないためだろう。美術館を訪れる人はそういうことがわかるが、そうでない人にも伝えるためにはやはり地道に展覧会で紹介することは有益だ。
本展を10月19日の内覧会で見た。題名のように百の茶杓が展示されているかと言えば、筆者が図録で数える130数本ある。また「百」は「もも」とルビが振られている。茶杓だけではあまりに地味でもあり、茶入れや茶碗や書画も展示された。数寄者として50数名が挙げられ、そのうち筆者が知る名前は20数名だ。それは画家や書家、陶芸家が大半で、実業家にはほとんど知識がない。金持ちが数寄者になり、画家や陶芸家と交流したのだが、その流れは今も続いているのかどうか、筆者にはわからない。今はゴルフが社交の道具で、ゴルフもするが昔の数寄者と同じように茶もたしなむという実業家は、いたとしても昔とは貫禄が違うだろう。また現在の有名な画家が茶杓を削って誰かに贈るということはイメージしにくく、数寄者同士のつながりがあるとは思えない。となれば本展は過去の数寄者の人脈を俯瞰するためのもので、資料として図録にまとめておこうというのが趣旨かもしれない。実際巻末の顔写真入りの数寄者略伝は1ページ4人を充て、数寄者の広がりを概観するのに便利だ。展覧会は6部門に分けられ、1は「近代以前の茶杓 贈り筒を中心に」とある。利休以降近世の茶人が銘を書いた竹の筒に茶杓を入れて贈ったものが展示された。茶杓に墨で銘は書けないし、また茶杓のみでは破損するし汚れもするから、筒に入れて贈ることは常識化した。そしてその筒はさらに箱書きされた桐箱に収められている。掛軸と同じ美術品の扱いだ。2「益田鈍翁 近代数寄者の大立者」は、鈍翁の作った茶杓や描いた絵巻などが展示された。会場にはキモノを来て名古屋から来た70代半ばの女性ふたりと男性がせわしなく展示を見ていて、鈍翁のコーナーでしきりに「どこがええんやろ」と愚痴っていた。すぐに鈍翁の茶杓とわかったようで、雰囲気からして茶道の位の高い先生であろう。数寄者の出身や活躍した土地によって贔屓にする人があると思うが、その人たちは鈍翁のことがあまり好きではないのだろうか。茶道をたしなんでいる割にかなり下品に見え、嫌な気分がした。せめて静かに見ればどうか。このコーナーで興味深かったのは、昭和11年に撮影された、鈍翁が別邸で茶を点てている写真だ。床の間に3点の縦長の黒っぽい板が掛軸のように飾られている。平安時代の厨子の扉で、蓮や多聞天の絵、書が黒塗り上に金泥で書かれている。鈍翁はそれが自慢であったのだろう。その3枚の板が本展に展示されていて、写真と比較すると破損が目立つ。戦争を挟んで伝わっただけでも貴重だが、いささか悲しい形になっているのは、鈍翁が理想とした茶の湯がさびれたことを暗示しているようだ。戦後は若い女性が茶道を学ぶことは大流行したが、それは家元を安泰にしただけで、数寄者の交流が広がり、活発化したようには思えない。
3「益田鈍翁を取り巻く関東・中京の数寄者により茶杓」は、関東大震災後に名古屋に1年間移住した鈍翁が影響を与えた名古屋の数寄者たちの茶杓を紹介する。筒には銘以外に歌を書くこともあり、詩や書の才能が露わになるので、贈る方も受け取る方も真剣になる。つまり、贈り筒と茶杓によって自己紹介をし、相手に値踏みしてもらうことになるから、教養を高めることは欠かせなかった。そういう人は今でもいるが、まず書が駄目になった。ワープロ、パソコンが登場して文化人、大学教授でもいい字を書く人は稀だろう。その意味でも茶の湯の数寄者は激減したと思う。とはいえ、全くなくなったのではないから、いつまた明治から戦前のように活発化するやわからない。伝統が長ければ低迷期はある。4「女性による茶杓」は、江戸末期から昭和にかけての5人が紹介された。筆頭は大田垣蓮月で、筒には彼女らしい仮名の銘と署名がある。蓮月が紹介されるからには鉄斎ももちろんと思うが、これがなかった。文人画家を網羅し始めると切りがないためか、あるいは茶杓を作る趣味がなかったのか、そこはわからない。次の女性は上村松園、画家らしく筒には銘の代わりにトンボが二匹描かれている。次は新島襄の妻八重、そして柳原白蓮、堀越宗円で、柳原は美人で筆者は顔写真に見覚えがある。図録解説によれば歌人で伯爵と芸妓との間に生まれた。社会主義者と駆け落ちをし、戦後は各地で平和を訴えたとのことで、波乱万丈の人生だ。堀越は茶人で、チャップリンの訪日の際にもてなし、鈍翁からかわいがられた。戦後は裏千家の重要役職に就く。5「関西における数寄者の茶杓」では住友春翠や小林逸翁、近衛文麿の展示が目を引いた。とはいえ、その3人しかほとんど名前を知らない。逸翁については池田市に美術館があり、何度も訪れて馴染みがある。予想どおりに呉春の絵も展示された。大阪歴史初物館で特別展があった平瀬露香はこの5のコーナーかと思うと、2の鈍翁の展示の最初に2点飾られた。6「文化人の茶杓」は谷崎潤一郎や板谷波山、橋本関雪、堂本印象、中川一政、小山富士夫など、広く知られる人の名前が目白押しで、こうした文化人は家元に茶席に招かれるなどして数寄者の仲間入りをした。個性的で手先が器用であるから、造形的に面白いものが多い。それはまた型を破り過ぎて行き着くところまで行った感があり、今後の文化人によってさらにその傾向が進んで茶の湯そのものが崩れて行くように思わせる。とはいえ、これは全くの門外漢の勝手な思い込みだ。そう言えば友人で大学で日本画を教えているYは昔から茶道を学んでいると言っていた。文化人として、文化人とのつながりを増やすためには茶道は欠かせないのだろう。日本画であればもっともだ。筆者も学べばと言われたが、抹茶は家でも飲める。
わが家は家内が昔何年か茶を習っていたこともあって、たまに抹茶を点ててもらう。そう言えば茶杓は長年浸かって半分に折れたものを使っていると思う。抹茶の粉を掬えればいいからそれでも充分だ。茶杓が現在の基本的な形になる前は素材や形はいろいろであった。要は抹茶の粉を少しだけ掬えればいいので、耳かきを大きくしたような形であれば何でもよい。それが少しずつ定型化して来て日本では茶道というように道がついた。日本は何でも道にしたがる。道にしてしまうと、そこには上下関係が厳しい師弟が生まれ、やがて家元制度が築き上げられる。そしてそれが伝統となって、その型をまず問答無用で学べば、その道に込められている精神まで学ぶことが出来るとの考えだ。これはあながち間違っていないが、定型を覚えるだけで一生が終わってしまいかねない。つまり模倣でよしとするこの考えは、文化の停滞を招きやすい。その点から本展の6のコーナーは伝統の常識をいかに壊すかに芸術家が挑戦したことになる。だが、その延長上にあるのは、抹茶でなければならないのかという考えだ。実際柳宗悦はコーヒーを道にした。一方煎茶にも道があって、ならば紅茶はどうかという考えに結びつく。筆者は毎朝必ず紅茶を2,3杯飲むが、京都では抹茶を使ったスイーツが目下大流行していて、茶の湯が廃れても宇治茶を作る家は全く困らないどころか、今は空前の大儲けをしている。またそうしたスイーツを喜ぶ人が茶道に関心を抱き、体験出来る店を訪れることはTVでよく紹介され、茶道はこれからっますます世界に広がって行くかもしれない。そうなれば新たな茶道も生まれるだろう。話を戻して、折れた茶杓を使い続けることは、多少割れた陶器でも使うという考えに結びつき、褒められたものではない。家にいて誰にも見られないからまあいいかと思う気持ちは誰にでもあると思うが、そこをきちんと律するのが禅や茶の湯の心であろう。それは重々承知しつつ、相変わらず破損したままを使っていることは多い。そんな話を「風風の湯」ですると、みんなそのようで、高齢になればなるほどに先は短いので新しく買い変える必要を思わないと言う。わびしい話だがそれが現実で、本展に名を連ねる数寄者はいわば雲の上の歴史に今後も名を連ねる人ばかりで、庶民とは縁遠いことを実感もする。もう書く気持ちの余裕がなくなったので最後に簡単に触れておくが、茶杓の各部分やさまざまな形の紹介もあって、手作りの簡単な小さな道具にも無限の個性の表現があり得る点が面白かった。日本はそうした一定の枠内での創造が得意だ。あるいはそうしたものにしか得意なことを発揮出来ないと言ってもよい。それは平安時代からの伝統だ。茶杓の多様な形は、今はゴルフのクラブに繰り広げられているのかもしれない。きっとそうだろう。