訓を垂れるのは親が子に対してだけにしておいた方がいいが、それが毎度のこととなると子どもも少しも聞いていない。家内は昔筆者と交際している時に親から反対され、その時に言われたのが、「親の意見となすびの花は千にひとつの仇もない」だ。

これを時々家内は思い出して笑いながら話す。なすびの花は咲くと必ず実が出来るとされ、親の意見も絶対に間違っていないから言うことを聞けというわけだ。それで親の意見にしたがう人もあれば家内のようにそうでない場合もあるし、また親の意見が正しかったと思うようになるとも限らない。それでも親が子の将来を心配するのはあたりまえで、それは長い経験から鑑みた態度だ。とはいえ、自分も親になるとわかるが、世間の親もいろいろで、顔をしかめたくなる常識外れもたくさんいる。そういう親を見て昔は、子どももろくな人間に育たないと言ったものだが、そうとも限らないことを誰しも大人になれば気づく。だが家内の親のように、世間的な、つまり常識に囚われた物の見方と、それを重視しない本音を持っている親がいる。「親の意見となすびの花……」は前者だ。90半ばまで生きた家内の父は、筆者の交際をなぜ反対したかについて、「たくさんいる兄弟姉妹の誰ひとりとして親に反対しなかったから」と家内に言った。責任逃れに聞こえなくもないが、「ひとりでも郁恵の肩を持つきょうだいがいれば許した」とつけ加えた言葉は信じていいだろう。つまり、家内は家族全員の反対を押し切って筆者と一緒になったが、還暦を超えるともう諦めの境地だ。それでも家内は両親の言葉「親の意見となすびの花……」が正しかったとは口が裂けても言わない。それはさておき、一昨日家内は「風風の湯」で81歳のMさんの奥さんから、大阪御堂筋のイルミネーションがとてもきれいであったと耳にした。Mさん夫婦は数年前まで阿波座で暮らしていて、今でも阪急に乗って梅田の百貨店によく買い物に出かける。昨日家内はイルミネーションを思い出し、それを見に行こうと言う。それだけで出かけるのは電車賃がもったいないので、展覧会をふたつ見ることにしたが、時間がなくなってひとつしか見られなかった。その後に御堂筋に入り、淀屋橋を500メートルほど下がったところまで歩いたが、同じようなイルミネーションが難波まで続くことは明らかで、もういいかと言い合った。それで御堂筋を横切って東に進み松屋町筋に出て、大型スーパーに立ち寄った後、天神橋筋商店街に入った。いつものコースだ。御堂筋を歩いている時、小雨が降ったり止んだりで、それが難波まで歩く気分を削いだが、家内は至って陽気で、しきりに笑顔で話し続ける。そういう時筆者はいつもこう言う。「一緒に歩いてて楽しいか?」。すると家内は決まって恥ずかしそうに笑いながら返す。「あたりまえやんか!」。筆者のような常識外れと暮らしながら、家内は筆者の何を信じているのだろう。