墨と硯と筆、それに半紙を持参した習字の授業が懐かしい。それが家内の妹が大人になって習字を習った時、墨を自分で磨らずに墨汁を使った。それは手っ取り早いが、味気ない。
墨を磨っている間の緊張感は半紙に筆を下す時の心の準備になる。墨の減り具合が変な傾斜がつくと、根性が曲がっていると言われたが、墨汁では根性がどうのこうもない。根性すなわち精神と習字はつながりがあるが、精神論は平成時代になって人気がない。1964年の東京オリンピックでは、日本の選手団はきれいに整列して国立競技場を行進した。再来年の東京オリンピックでは、選手たちは歩行者天国のように好き勝手に歩き、それが自由でよいとされる。自由とは崩れていることで、中学校の詰襟の制服も、筆者の次の世代くらいからは詰襟を外すことが常識になり、そのことを誰も咎めなくなった。シャツの一番上のボタンを外し、ネクタイもきちんと結ばない恰好を見苦しいと思う筆者の世代は、若い人たちから恰好悪いと言われる。お笑い芸人の大御所Mは、近年ネクタイをだらしなく結び、無精髭を生やし、髪を金に染めている。サラリーマンと違って河原乞食の末裔であるという主張なのだろうが、筆者はその見苦しい風采にすぐにチャンネルを変える。とはいえ、時代は崩れたものを自由と称え、整ったものを嘲笑する。先ほど「風風の湯」で嵯峨の70代半ばのNさんはよく出かけるキャバレーの話をした。横について相手をしてくれるきれいな若い女性が京大生と言う。1日1万円で月に20万稼ぐが、田舎の両親の仕送りではとても生活出来ないからだ。そういうアルバイトをどうして見つけたかと訊くと、ネットに雅とかいうサイトがあって、そこに登録すると適当な店に派遣される。Nさんは試しにスマホの電話番号を訊くと教えてくれたという。つまり、店以外の場所で会って金をわたすことも出来る。その京大生は家庭教師より時給がいいのでホステスになっている。Nさんはそのことを半ば嘆いていたが、きれいな若い女性が横にいて酒を飲むと確かにおいしいと言う。男なら誰でもそうだ。そして金が腐るほどあれば、初めて会ったホステスにも100万の札束をばら撒く男もいる。だが、そういう幸運に遭遇するより、得体の知れない遊び人にストーカーされる可能性が大きい。それは京大生にすればよけいなお世話で、心配するなら金をもっとくれという気持ちだろう。美人でなければ、あるいは男は別のアルバイトだ。たとえば着ぐるみの中に入る。しんどいはずだが、人々の反応が面白そうで一度はやってみたい。今日の最初の写真は先月25日、阪急嵐山駅前で能勢電鉄のウサギと亀がやって来た。2枚目は3日前に四条寺町で撮った。写真左手に長身の学生が扮するサンタクロースがいて、じゃんけんをして勝ったので黄色いタオルがもらえた。気楽なサンタは着ぐるみよりアルバイト代は少し安いか。