砂を噛むことは昔は貝を食べる際によくあったが、そのことをすっかり忘れるほどに近年はその経験がない。ところが、先日もらった大根の葉を家内が調理したのを食べた時、ガリっという感触があった。

砂を噛んだように味気ないとはよく言ったものだが、そのまま噛み続けて飲み込んだ。よく洗ったはずでも残る砂がある。それは不可抗力で、受け入れるしかない。その不可抗力は誰にでも訪れる。老いだ。今日は母親が3か月入院していた病院を出て、新たな病院に移った。大腿骨を骨折してから四度目だ。京都市内の北か南のどちらの病院がいいかということになって、北は山辺にあってとても寒く、足の便も悪い。それで南にしたが、3か月の間に急速に認知症が進んだ母はそのことを知らない。見舞いに訪れても昼間はほとんど車椅子で眠っている。それで夜中に起きているそうで、それでは具合が悪いので病院はきつい薬を与えていた。それが原因とは限らないが、目立って意欲がなくなり、意識が朦朧としている。年明けには満90歳で、それも無理がないかもしれないが、目に見えて変化が著しく、毎日見舞っていた妹もそのことに気づいた。まことに骨折りは損で、一昨日の大阪での郷土玩具の例会でも高齢になって倒れればもうおしまいという話題が出た。それで元気な間は、また経済的な余裕がある間は、好きなところに出かけて好きなように時間を過ごすことが幸福という月並みな結論になったが、出歩いている間に躓いて怪我をし、そのまま入院ということになるかわからない。過去はよく見通せるが、未来は誰にもわからず、それで残された未来がわずかとわかっている高齢者は、未来がより多く残されている若い世代をどこかで羨むが、それを認めたくない人は高齢をどこかで恥じる。若い世代に恥じる必要は本当はないが、高齢者ばかりが目立つ日本でしかも若者の給料が少ないとなると、まともな高齢者は自分の存在を恥じる。筆者の母はもうそんなこともわからないほど常に夢うつつ同然になってしまったが、痛いや熱い、寒いやおいしいはまだまだよくわかっていて、たぶん砂を噛めば嫌な顔もするだろう。その母親に、骨折りは損かと問えば、あたりまえだと答えるはずだが、骨折りは尊かと訊ねれば、そのとおりとも言うに決まっている。筆者はしないでもいい骨折りを気づけばいつもしていて、しかもそのことが喜ばれもしないので、骨折り損そのものの人生だが、自分で尊と思っているのであればいいではないか。またそうでも思わない限り、生きて行きにくい。砂を噛むような味気ない世の中で何かいいことがあるとすれば、無事にこつこつと何か好きなことが出来ること以外にない。その骨折りの果てに本物の骨折りがあるとは、何とも滑稽であり、また損でもあるが、考えようによっては尊くもある。今日の最初の写真は移った病室から、2枚目は玄関前で撮った。