銭湯がすぐ近くにある車折神社の町内から、筆者が知る限り、「風風の湯」に3人の男性客がよく来ている。ひとりは築80年の古い家に住み、親柱がとても太いと言っていたが、代々嵯峨に住むのだろう。

ほかにも嵯峨から来ている常連客をふたり知っているが、ともに大覚寺の近くに家がある。車折神社の近くに住む70代半ばの常連客と1か月ほど前にサウナ室でしゃべった時、筆者はその境内に富田渓仙が植えたとされる「渓仙桜」があることを話題にした。するとその人は渓仙という画家が嵯峨に住んでいたことは知らないが、「渓仙桜」はよく見ていて、それがその画家に因むことを初めて知ったと言った。絵に興味がなければそのようなものだ。また絵を描く人でも有名な画家に関心があるとは限らない。だが、神社の境内のど真ん中にわざわざ名づけられた桜の木があれば、その名前の由来を知ろうとするのは地元住民の義務ではないか。それほどに芸術はごく一部の人が興味を抱き、またその人たちが後世にその記憶をつないで行く。富田渓仙の家は車折神社の西500メートルほどにあったが、車折神社には芸能神社があって、それで渓仙は画家として立派になることを祈願したのだろう。境内には鉄斎の筆塚もあるので、戦前までは画家が訪れることが多かったことが想像される。今はもっぱら芸能人が朱塗りの玉垣に名前を連ねることで有名だ。芸能と芸術をどのように定義するかは人によって考えが異なるが、鉄斎や渓仙が車折神社の玉垣にあるアイドル歌手たちの名前を見るとどう思うかを考えればよい。鉄斎や渓仙が活躍した時代にも大衆が歓迎する芸能はあったが、当時はTVがなく、芸能人の人気は現在よりもはるかに地域的であった。以前書いたことがあるが、小説家の坂口安吾が戦前に車折神社のすぐ近くに一時的に住んだ時、この神社のことや、また嵯峨にある大きな寺のこと、さらには現在の京福電鉄の嵐山駅近くにあった演劇場などについて書いている。その文章からは鄙びたもの特有の一種の悲しさが伝わる。またそのことと芸能が筆者の中では結びつく。その味わいは現在の各地を巡業する大衆演劇にもあり、またそれはそれで熱烈なファンがいて、TVに出る芸能人とは別の世界を形成している。それはともかく、現在の車折神社の玉垣に名前を連ねる芸能人の多さは安吾時代にはなかったはずで、表向きは芸術が著しく後退して芸能人だらけの日本になった。そのことで車折神社が潤っているので、神社としては歓迎すべきことだが、鉄斎や渓仙が一般には忘れ去られていることが何とも情けない。車折神社の玉垣の名前を子細に観察したことはないが、おそらく画家の名前はほとんど皆無だろう。芸能と芸術が分けられ、画家は後者に属し、また格が上と自覚しているのかもしれない。それを言えば音楽家もだ。大衆音楽から文化勲章をもらう作曲家まであって、後者は車折神社に参らない。

今月2日、車折神社の北にあるスーパーからの帰り、南の細い路地に入って京福電鉄の線路を越え、同神社の境内に入った。それは南北に細長く、三条通りに面して大きな鳥居がある。所狭しと鳥居や祠がたくさんあるが、見物は願い事を書いて奉納する玉砂利の山だ。これに坂口安吾は浅ましさを覚えたが、神頼みは実現不可能なことである場合がほとんどで、どうせそうであるからには欲張って望むことは一種の笑い話であり、庶民はそのことをよく知っている。筆者が京都に出て来て友禅師に就いた時、師匠は神社に参ることを嫌悪していた。神頼みはみっともなく、そんなことをする暇があれば努力せよとの考えだ。だが、努力はいわばあたりまえで、そのうえに神さまに祈っておくのは悪いことではない。それで心がすっきりするのであれば、神は大きな役割を果たしている。神社に参るという一種の儀式的行為を日常に持つことは、わずかでも精神的な支えになり得るはずだ。そう考える人はお参りをする。坂口安吾はそれを否定し、それで車折神社のうず高く積まれる願い事が書かれた小石を見て嫌悪を催したが、文筆業は芸能ではないとの考えがあったのだろう。実際そうかもしれない。ノーベル賞には文学賞があるが、美術賞や芸術賞はない。安吾は鉄斎や渓仙がいくら画家として有名であっても、自分はそれより格上の文学に携わっているという自負があったのかもしれない。そこで筆者は同じく戦前に書かれた川端康成の『伊豆の踊子』を思い出す。康成の実話で、学生が旅芸人の親子と出会ってその子である十代半ばの踊子に恋心を抱き、踊子も学生を慕うが、ふたりはすぐに別れる。その後ふたりは永遠に会わないはずで、元来生きる世界が異なることを暗示している。康成が小説に描いたことでその旅芸人の娘の存在は昇華したが、その逆はあり得ず、そこに旅芸人より文学者がはるかに格上であることが読者に伝わる。ただし、それは優れた作品であるからで、描き方によっては下衆にもなる。ジェスロ・タルの1987年のアルバム『CREST OF A KNAVE』にも同じことを思わせる曲「SAID SHE WAS A DANCER」がある。その曲では、旅芸人としてのロック・ミュージシャンである彼らは、いわば悪漢との自覚があって、旅先で出会った東欧の踊子をどこかで同類と見ている。それはさておき、今日の写真は車折神社の弁財天を祀る弁天神社の社と、そのすぐ南に翻る同神社の御守りを宣伝する幟旗、そしてさらに少し南にある「渓仙桜」だ。先日NHKのTV番組でクラシック音楽の演奏家コンクルールを見たが、ある若い女性ヴァイオリン奏者は名古屋瑞穂区の上野天満宮の御守りを持って演奏し、入賞した。その御守りはロックのドラム一式と鍵盤が図案になっている。車折神社の弁天神社のそれは琵琶を持った芸術の美神である弁財天で、女性で弦楽器を奏でるのであれば断然こっちの方がよい。