芝の手入れは大変なので、苔を生やすとよさそうに思うが、芝と苔では生育に湿度の違いがある。

2か月ほど前、自治連合会の副会長のHさん宅に立ち寄って玄関前で長話をしていると、30代の男女が嵐山方面から歩いて来て、筆者とHさんに笑顔で訊ねた。「苔寺はここからどのくらいですか」。筆者とHさんはほとんど同時にそれに答え、そしてつけ加えた。「苔寺は予約制やけど……」。案の定そのふたりはきょとんとした。知らなかったのだ。予約制でしかも確かひとり3000円程度支払う必要がある。30年ほど前か、観光客の急増で境内の苔の生育に問題が生じ始めた。それで入場制限をしたのだ。ふたりは諦め顔をしたが、筆者は苔寺のすぐ近くにある鈴虫寺を勧めた。そこは住持の法話が面白いので有名で、また境内からの眺めもよいことを言った。ふたりはまた笑顔で先へと歩み始めた。苔の話をもうひとつしておく。3、4年前からわが家の玄関脇の小さな植え込み前に苔が生え始めた。家内が植え込みに水をよく与えるので、そのおこぼれで苔が生え始めたのだろう。苔は少しずつ面積を増やし、減ることがないが、2か月に一度、水道メーターの蓋を検針員が開ける際にその苔を踏みつけることがあって、靴底の形に苔が全滅する。だが、2か月で元に戻るし、時には検針員が踏まないこともあって、苔の面積は微増し続けている。たまにその表面を撫でると、ざわざわとして気持ちがよい。さて、その苔が野宮神社境内の奥にもたくさん生えている。苔寺の壮大さには比べようがないが、それでも大切に管理されていて、苔庭を無料で見たければそこに行けばよい。さて、先月16日は家内と、25日は息子と一緒に嵯峨の亀山公園から竹林を散策したことは先日書いたが、今日の写真は家内と出かけた時に野宮神社で撮った。この神社については以前に
鳥居について写真とともに投稿したが、その後境内のすべての社を撮影しながら、投稿の機会を得なかった。今からでも遡って投稿出来るかその時間がない。それで16日はごく一部だが再撮影をしたので、今日はその写真を使う。今年9月上旬の台風によって嵯峨の竹林が大きな被害を受け、野宮神社の道路際の石積みの一部が崩れている様子を16日に確認したが、25日にはその石垣は元どおりになっていた。また竹林は大賑わいで、台風の被害があったことを知る外国人観光客は少ないだろう。野宮神社も人で溢れ返っていて、台風の被害がごく一時的なものであったことは不幸中の幸いだ。だが、観光客の大混雑を喜んでいるのは店の経営者だけで、住民は仕方ないというのが率直な思いだ。鄙びた風情を求めるのであれば観光シーズンの嵯峨は避けるべきで、京都の名所は人混みを楽しみたい人向きになっている。筆者は都会育ちなので、どちらかと言えばその部類に入るが、それでも今の嵯峨や嵐山は異常に人が多いと感じる。

野宮神社の苔庭のそばに小さな祠がせせこましく並んでいるが、その中に「大山弁財天」がある。家内の母は家内を生む前夜に弁財天の夢を見たという。弁財天は音楽の神様で、その夢が正しければ、家内は音楽に携わる人物になっていたはずだが、そうはならなかった。家内は音感がとても優れているが、家計の事情で音大に進むことは出来なかった。家内の最も親しい友人は音大に行ったが、今は音楽とは関係のない人生を歩んでいる。となれば、家内が音大を出ていればものになったかと言えば、それは厳しいだろう。筆者と家内は初めて勤務した同じ設計会社で音楽を通じて、つまり社内の軽音楽クラブすなわちロック・バンドの人員として知り合ったので、家内にとって音楽はやはり大きな縁があったと言うべきだろう。弁財天は一方では財運の神とも言われるが、家内はそれには全く縁がない。筆者が好き放題をしていることにいつも文句を言い、また筆者にもっと商売っ気を出してほしいと思いながらも、筆者が気分よく生活していることにどうにか仕方なしに満足しているのが実情で、家内の母が見た弁財天の夢は今では笑い話になっている。それはさておき、「大山弁財天」であるからには家内がお参りしておくべきで、筆者の言葉にしたがって家内は賽銭箱に小銭を入れて拝んだ。駒札には音楽や芸事に言及せず、「財運開運」と「交通旅行安全」とあって、これならどのような観光客でも喜ぶ。「大山」というのは鳥取の大山に関係があるのだろうか。これがわからないが、わからないことはこの社の右にある、今日の2枚目の写真の小さな祠で、岩の上に置かれている。金具で留められているはずで、そうでなければ大きな風ですぐに倒れてしまう。左手にビニール傘が見えるが、これは参拝者のものではなく、「大山弁財天」とこの祠の間にある、さらに小さな祠を覆っている。これも名前がわからない。筆者が着目したのは祠の下の狐像の列だ。これによって稲荷系の神を祀ることがわかるが、野宮神社には「白福稲荷大明神」の社がある。境内の端にあるこの狐像の列は、小さな人形に興味のある人は着目する。全部で9体あって、左右一対であるからにはひとつ少ない。これは誰かが持ち去ったか、あるいは割れたので処分されたかだ。同じものを買って来て並べる暇がないのか、それとも奇数であるべきなのか、何とも気になる。またよく見るとその9個のうちのいくつかは長い尻尾が欠けているなど、不完全なものが混じっている。それが気になっていたので、25日に訪れた時は、息子の制止を振り切ってまともなものを中央に置き変えた。息子にすれば無暗に触ってはならないものという考えで、それがまともだが、筆者は造形的に美しくないことは無視出来ない。筆者とは別の思いで触る人がたまにいるはずで、それで時に欠けることがあるのだろう。