覚えが悪くなったと最近は家内によく言われる。筆者がホームページをジオシティーズから別のサーヴァーに移設し、その見え方を毎日修正を施しつつ、「おかしいな」と小声でよく呟くからだ。

また家内はその声を聴くと心臓に悪いと言う。筆者が何時間も画面を睨みながら、画面が思うように表示されないことに苦しんでいるように見えるからだが、タグの括弧ひとつ見落とせば画面は出鱈目になるから、視力があまりよくない筆者にとって、HTMLの書き換え作業は苦行だ。ワードプレスには洒落た画面のサンプルが無数にあるが、そのお仕着せの画面は吊り服を買うようなものであるのに対して、筆者がアイコンひとつ手作りしているのは誂えで、満足の行くものは後者しかあり得ない。創造とはすべて誂えだと思うが、若い間はいろいろと先人の模倣をし、自分の個性の発見が出来ずにもがく。技術の錬磨の一方、独創性を追求するのは芸術の基本でありまた究極の行為だが、ワードプレスに数千ほどあるサンプル画面を多くの人が使うと、ワードプレスが基本となって手作りのホームページは野暮な印象を与えることになり、すでにそうなっているが、みんなと同じ、あるいはどこかにそっくりなものがあることを嫌う人はいつの時代でもわずかにいる。それはさておき、本題に入る。今日の写真は先月16日と25日に撮った。前者は家内と、後者は息子と一緒に亀山公園を散策し、ほとんど同じルートを歩いた。もう一度行くつもりでいるのは、紅葉の変化を撮影するためだが、かなり散っている。渡月橋北詰めの信号を左折して大堰川左岸を歩くと、すぐに右手つまり北側に朱色の玉垣がある。
車折神社の頓宮で、これについては3年前の8月に写真を載せたが、看板で覆われていた門が開けられて中が見えていた。それが珍しいので16日に撮影したが、中に人力車が並んでいて、待機場所が確保しにくいので人力車の会社が境内を借りているのだろうが、神社としても収入になるのであれば拒否する理由はない。25日も門は開いていたが、人力車は一台もなく、商売大繁盛だ。1年で最も観光客の多い紅葉真っ盛りの季節で、夜の8時になっても人力車は走っていた。真っ暗な風情を楽しみたい人もいるのだろう。その夜に観光客に来てもらおうと、もうすぐ花灯路が始まるが、10日ほど前にもう路傍に灯りの設置は終わっている。また嵐山のライトアップは数日前に始まったそうだが、花灯路も毎年のことなのでもういいかという気がしている。それで嵐山頓宮の中が見えたことを珍しいと思っている。中には別に大したものはなさそうだが、神社はみんなそのようなものだ。門の前の「琴きき橋」の石の欄干と親柱は明治のもので、渡月橋北詰めの東角にも「琴きき橋」の大きな石柱があるが、平安朝の恋物語に関心のある人でなければ見過ごす。