存在していてあたりまえと思っているものが急に姿を消す。それが人生だが、今日は「風風の湯」で常連のTさんがぽつりと、受付のYさんが昨日で辞めたと言った。
「風風の湯」が出来て以来ずっと勤務していたはずで、筆者や家内も充分馴染みになっていた。Yさんは来月早々韓国に旅行に行く。そのことを筆者は常連のOさんから2週間ほど前に聞いたが、仕事を辞めてすっきりした形で行くことがわかった。辞めた理由は知らないが、何も聞いていなかったので、やはりさびしい。松尾在住とは知っていたが、ひょっとすると道端やスーパーで出会うこともあるかもしれない。それはともかく、今月に入って筆者は常連客のGと一回しか会っていない。それは筆者がサウナ室に入るのとGが出て来るのが同時であった時だが、筆者は挨拶をしたのにGは顔も見ずに無視した。もともとそういう感じなので腹も立たないが、後日嵯峨のOさんがサウナ室で筆者に言うには、常連客の間で筆者の姿を見ないことが話題になった時、Gは「死んだ」と言ったそうだ。それも別に驚かない。一昨日はサウナ室で81歳のMさんと一緒になり、筆者はGの姿を最近見かけないことを話題にした。するとMさんは、「さっき来ていたよ。それで『姿を長いこと見なかったから、死んだと思っていた』と言ってやった」と言い、筆者は爆笑した。Mさんは続けて、「2週間ほど風邪を引いていたらしいよ」と理由を言ってくれたが、健康自慢のGにしては冴えないことだ。ともかく、一旦均衡を失うと、元に戻りにくいことがあって、筆者がライヴハウス通いをしていた間に常連が出会う調子が狂ってしまったようだ。何でもいつまでも同じ状態であると思うのは間違いで、関係は刻一刻と変わって行く。そして、Gの口癖ではないが、いつの間にか死んでしまう。筆者が京都に出て来て友禅の師匠に就いた後、染色工房に勤務すると、そこに営業担当のKさんが入社して来た。Kさんは工房の主宰を任されていた筆者に事あるごとに、「何でも燃えている時に行動を起こさなあかんで」と、年配者としての教訓めいたことを言ってくれた。それは、染色業界は流行があり、それに乗って仕事をしなければうまく儲けられないという意味だが、仕事だけではなく、あらゆることに言える。ぐずぐずしている間に熱は冷めてしまう。熱のある間にせっせと行動することは見方によれば浅はかであるし、大失敗することもあるが、いわゆるうまく当てるためにはそのように行動することに限る。ひょっとすれば、「風風の湯」の受付のYさんはいい転職先が見つかったのかもしれない。仕事の内容や人間関係と給料を天秤にかけ、得な方を選ぶのは当然のことで、同じ人がいつまでも同じ職場にいることはない。そして人間は集合と離散を絶えず行なっている。動物の中でも特に人間はそうだ。
昨日息子が帰って来て、今日はふたりで亀山公園を散策した。紅葉はさっぱり駄目だが、観光客は膨大で、天龍寺前は歩行者天国になっていた。連休の間の人出を見込んでそうしたのだろう。嵐山公園は昨日と同じく、渡月橋上流側の歩道が嵯峨に向けて一方通行にされているので、道路を横断するために大勢の人が列を作っている。ようやくわたって歩道に入っても、動きは遅く、わたり切るのにいつもの数倍はかかった。その前に筆者は息子に着いて来いと言いながら、松ぼっくりを並べた排水口のコンクリート蓋を確認しようとしたが、その3、40メートル手前で息子が屋台の煙が嵐山を霞めていると言うので、そっちに注意が削がれ、排水口の蓋のことはすっかり忘れてしまった。それは筆者の老化のためもあるが、もうその蓋の上に松ぼっくりの欠片さえもないことを知っているからで、それほどにその蓋上に松ぼっくりをびっしりと埋め尽くした行為は過去のことになった。いわばどうでもいいことが1か月以上も経てば、それは仕方がない。だが、筆者は
前回の10月10日の投稿以降、その蓋に松ぼっくりの欠片を並べて三度写真を撮った。せっかく並べて撮ったものであるから、没にせずに今日消化しておく。上から順に先月12日、16日、25日だ。そして、
今月16日の投稿の最初の写真はその蓋を下、渡月橋を上に捉えて撮った。その写真からわかるように、蓋には松ぼっくりはない。近くを探しても欠片もなく、見事に松ぼっくりは消えた。筆者が集合させた松ぼっくりは、きれいさっぱり離散した。集合は人為的で、離散は自然ということだ。自然に逆らって集合させることは、人間による造形すなわち芸の術であって、人間は離散に耐えられないので集合を繰り返す。その集合は惹き合う者同士でのことで、その惹き合う者同士は死者と生者である場合も含む。もっとも、その死者は赤の他人で、筆者のことを知るはずがないから、自分勝手な想像だが、それでも作品を通じてその人と対話が出来る。今日は息子と亀山公園を散策して小さな円形の公園の脇を歩いたが、そこで1992年の春、サイモンさんと筆者は小1時間ほど座って話をした。その次に彼に会ったのは翌年ロンドンでのことだが、その2回で充分お互いわかり合えた実感がある。そのように波長が合う人がごくたまにいるものだ。そうした惹き合いは一生心に宿る。そして、長年付き合っても心から打ち解けない場合があるのに、ほんの1,2回でそのような関係になれるものだ。そういう集合が生涯にどれほどあるかで幸福感を測ることが出来る。そして、そういう集合は片方が死んでも変わらない。さらに言えば、もう片方が死んでも、その集合は残る。筆者が蹴散らされた松ぼっくりの欠片を拾ってコンクリート製の蓋に並べるのは、そういうことを思ってのことだ。