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●「武田理沙~フランク・ザッパ・メドレー関西初演」補足
儀のようなことにならなければいいがと思って、今日は下の画像のように、ブログ画面に大きな文字で武田理沙さんの初めての関西ツアーの最終日が神戸の北野のライヴハウスであることを告知した。



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文字の色はコスモスの花に合わせたが、今日は出かける前に彼女にコスモスの花を買って持って行こうと思い、トアロードを上って行くと、左手に花屋があった。立ち止まって、店先に目を落とすと、コスモスの鉢植えが800円ほどで売られていた。鉢は重いからもらっても迷惑するから、花束がいいのだが、もう季節的には少し遅いだろう。ともかく、気持ちだけにしてコスモスは昨日の投稿の写真を見てもらうことした。彼女をもっと多くのコスモスが咲く日当たりのよい花畑に立たせて真正面から撮影すると、とてもいい写真になりそうな気がする。コスモスは葉が絡まりやすくて捉えどころがなく、彼女のノイジーな曲を思わせるが、宇宙とは混沌としたものだ。そこに秩序をもたらすのがミューズだが、武田さんの音楽には壊しては作るというシヴァ神の方がふさわしいか。話を戻して、今日のライヴ告知画面は2行目が半分ほどあまったので、「Don‘t let her down!!」と書き足した。今夜会場に来た人にはわかるが、その言葉は予言となって大きな意味を持った。そして武田さんは葬式の参列者のように落ち込みつつ、最後にはそれがすっかり晴れて、彼女曰く、ルービック・キューブの6面の色がぴたりと合わさったような結末を迎えた。来月1日に東京でライヴがあるとのことで、また多忙な日が続くのだろう。彼女のCDを買った時、そのジャケット写真から身長170センチほどのモデルのような自信に満ち溢れた人物を想像し、話しにくそうな気がしていたが、先日書いたように、小柄で澄ましたところがなく、筆者の杞憂は一気に吹き飛んだ。武田さんは筆者のことをプロレスラーのような大男で、会って話すのが怖いと金森さんに伝えていたそうだが、プロレスラーの体格は金森さんで、また金森さんも筆者も恐れられるところは全くない。それはさておき、28日の午後10時頃、FUTUROで武田さんに話したことは、今夜の会場でどのようなことを対談すればいいかというネタの打ち合わせであった。彼女は知識について突っ込まれると返答に困ると言った。つまり、〇〇を知っているかといった質問だ。筆者のような60代半ばを越えた老人と30そこそこの女性が持っている経験や知識の量に格差があるのはあたりまえで、あまり馴染みのない話題で武田さんを困らせるのはよくない。そのことはわかっているつもりだが、客を前にして、多少は客が喜ぶことを話す必要もあろうから、そのことを彼女に言うと、また困惑顔になった。筆者は25日の大阪での対談の続きを考えていて、同じ客がどれだけ来るかにもよるが、なるべく同じ話題は出さないようにしたいと彼女に言った。
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 とはいえ、筆者は対談の下書きをせず、頭の中で考えをきちんとまとめることもせずで、出たとこ勝負になるかと思いながら、彼女がドビュッシーの曲をCDで取り上げていることに話題をつなげた。ドビュッシーは日本の浮世絵版画に魅せられて作曲したが、その視覚の印象に基づく作曲は武田さんのCDに収録される曲と大いに共通すると思うからだ。すると彼女は中学、高校と絵を描いていたと言った。それは初耳で、10時過ぎまでFUTUROにいたことによる大きな収穫であった。絵を描くのが大好きであったのに、音楽の道に進んだというのは、ザッパと同じだ。彼女がザッパの曲をピアノで演奏することには、美術という強い結びつきがある。そこからドビュッシーのピアノ曲を演奏することにもつながる。彼女のCDにはアニメーションにつけた音楽がいくつか紹介されている。それは実際のアニメ作品に使われたのかと思っていたが、彼女が好きなアニメから連想出来る思いを勝手に作曲したと言う。無声映画では画面を見ながらピアニストが即興で音楽を奏でたが、そういう才能が彼女にある。またアニメだけではなく、ブニュエルの「アンダルシアの犬」の映像を元に演奏した曲もあり、視覚が彼女の音楽に大きな意味を持っていることがわかる。これは今夜時間がなくて話せなかったが、視覚から触発された音楽という点で武田さんとザッパはつながりが強い。以前に書いたことがあるが、ザッパは面会に来たサイモンさんに向かって、あるギター曲を聴かせながら、どういう映像を思い浮かべるかと質問した。サイモンさんが思いを伝えると、ザッパはそれとは全然違う奇妙な場面を言った。確か大きくて長い鼻が何かにぶら下がっているような場面で、筆者はそれを聞いてダリの絵を思ったが、絵は言葉では説明出来ず、ザッパが思い描いていた眺めは、言葉をいくら尽くしても詳細にはわかりようがない。つまり、ザッパがある場面を思って曲を書いても、聴き手はそれとは関係のないイメージを思い浮かべる。それゆえ、武田さんがアニメや実験映画に触発されて曲を書いても、聴き手は自由に感じてよいし、またそうすることしか出来ない。ところで、今夜筆者は対談ではなく、最初にひとりで30分ほど話してほしいと金森さんから言われたが、30分でまとまらなかった。筆者は人前で話す機会が乏しく、ひとりで30分も話す間、半ばしどろもどろになってしまったが、その罪滅ぼしをこの投稿に委ねている。まとめ的なこととは、武田さんとザッパの視覚性への関心についてだ。そこから彼女がドビュッシーの曲を大きく変貌させる行為も理解出来る。今日の2枚目の写真は彼女が書いたザッパ・メドレーの曲順だが、ザッパの曲については原曲の雰囲気をピアノのみで表現している。当然のことながら、それも変貌だ。
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 さて、FUTUROで武田さんは手元のスマホを操りながら、よく見るツイッターであろうか、ある人の画面を筆者に見せてくれた。定期的にそのある人は好みの絵画を投稿しているのだが、武田さんは指でずらずらと数十枚の絵画の画像を縦に表示させて行った。ラファエル前派など、19世紀半ば前後の絵が大半のように見えたが、どちらかと言えばあまり有名でない絵が中心だ。それを受けて筆者はついでに自分好みの画家としてRovis Corinthの名前を書き伝えておいたが、それは武田さん好みではないだろう。それはさておいて、昨夜の難波での彼女の演奏には行かず、彼女がどういう演奏をしたのかわからないが、誰かと即興で演奏する場合、それは一度限りのことで、また別のライヴに見に行けばよいという考えは通用しない。録画録音しておけば、それなりに様子はわかるが、それはその場にいて体感したという思いとは全く別物だ。今日は演奏が始まる前に、ライヴの録音を後で聴き返すことはないのかと彼女に訊ねたところ、まずかったと思う箇所を思い出すので、それはほとんどないと言う。他人ではわからないそういった意に沿わない箇所はどんな作家にもある。筆者のこのブログもそうした荒い箇所だらけで、ほとんど読み返さないが、たまに読み返すとなかなかいいことを書いているではないかと思い、書き換えの必要を感じない。それと同じことは武田さんにもあるはずで、録音を聴き返して、いいと思える部分を再確認するのはいいのではないかと筆者はさらに訊いた。すると、確かにそうだが、いい部分は聴き直すまでもなく覚えているといったような返事で、また演奏を聴き直して次はこうしようということよりも、毎回のライヴの雰囲気に反応して瞬時に音を奏でると言い添えた。その雰囲気とは、会場の大きさ、客の数、また客の質、さらには季節、また彼女個人のバイオリズムなど、無数の要件から成り、また彼女しかわからないものだ。そこから生み出される一連の音は、即興の名にふさわしいもので、緻密に構成された前述の19世紀半ば前後の絵画とは大いに異なるが、彼女は自分の演奏に独自の景色を眺めているだろう。その景色は客にはわからず、表現者とその作品を受け止める人は別々のことを考えている。それは不幸であろうか。また、そもそも音楽はある一定の景色なり感情を他者に伝えるものか。筆者はたまにレナード・コーエンの歌詞を読むことを好むが、彼の曲は詩を音楽が支えていて、詩を省けばほとんど価値は乏しい。つまり、彼は音楽家というよりも詩人で、詩をより記憶してもらいやすいように音楽を援用している。もっと言えば、ある曲の音楽に別の詩を持って来てもよい。これはストラヴィンスキーが言ったように、音楽は何も意味しないことであって、つまりは聴き手の自由に任されている。
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 武田さんは歌詞を書かない。音楽だけで表現する。デビューCDに説明がないのは、文章によって聴き手の印象を左右したくないからだと言う。歌詞があれば聴き手は大きく制限された中でその曲を味わうことになるが、武田さんはそういうことを避けたい。あるいは得意としない。FUTUROでの演奏では、最後に児玉真吏奈さんと武田さんの共演があった。児玉さんは歌手であり、自分でキーボードで伴奏する。その意味で武田さんが出来ることは児玉さんより少ないが、児玉さんの歌がない両者の共演となるとどうか。ふたりが使うキーボードは種類が違い、奏でる音が違うので、どちらがどの音を弾いているかは演奏を見ないでもわかったが、それでも音が増えて来るとそれがぼやける。最初は児玉さんがささやくように静かに弾き、それに武田さんが応答するという形で、7,8分経った頃、突如大きな音でロック調のリズムが鳴り始めた。そしてそれに合わせてふたりは存分に弾きまくったが、そのロック調の伴奏は児玉さんが発したはずで、そのことを今夜武田さんに確認すると、そのようであったが、彼女は演奏をほとんど覚えていないと言う。初対面の演奏は印象に強いのではないかと思ったが、毎晩違う相手と演奏すると、いちいち覚えてもいられないのだろう。児玉さんが発したロック調の伴奏は、武田さんと予め打ち合わせされたものかどうかだが、そうでなければ児玉さんの意表を突く才能は驚嘆すべきもので、また彼女はそのアンニュイな声色からは想像出来ない攻めの力を内に秘めている。このFUTUROでのふたりのジャム・セッションを金森さんは武田さんに向かって、個人的には今回のツアーのベストと言ったが、そのひとつの理由はロック調のリズムが中間部に挟まれ、起承転結の起伏に富んでいたからであろう。ともかく、共演も含めて、場所を変え、演奏を毎晩のように続けて行くことが、即興の能力を高めて行く。では武田さんはデレク・ベイリーのように毎回違う即興ばかりしているかと言えば、ザッパ・メドレーは即興が皆無と言うから、厳格な構成を重視したい面もある。また即興も構成であり、彼女なりの必然があって、次に奏でるべき音が選ばれる。小さなキーボードに付随した多くの小さなつまみを左右に回転させながら、さまざまな雑音を混ぜ合わす作業を見、聴いていると、彼女が怒りの発散をしているようにも思えるが、調性のある、つまり一定の感情を聴き手にもたらしやすい音楽の一方で、そうした騒音の嵐を奏でたくなるほどに、彼女の内側にカオスが渦巻いている。カオスはコスモスと対を成すとされるが、カオスを手なづけてコスモスにしたいもどかしさを、カオスの音で表現するというもどかしさを彼女は抱えている。ドビュッシーもザッパも遺産で、それを受けている彼女はそれらを変貌させる権利を持っている。変貌は時にカオスの様相を呈する。
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by uuuzen | 2018-10-30 23:59 | ●ライヴハウス瞥見記♪
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