咳がひどい家内を置いたまま連日出かけている。家内は風邪を引いたようだが、去年肺の片方の手術をし、もう片方は薬で抑えている状態で、ひどい咳が出るととても心配になる。

明日も大阪難波で武田さんのライヴがあるが、筆者は行かずに火曜日の神戸でのライヴに体力をたくわえる。偶数月の第4土曜日は心斎橋で郷土玩具の会が開催され、今日は半年ぶりにそれに出かける予定を立てていたが、それを変更して北堀江にある喫茶店FUTUROで開かれるライヴと金森さんによる「プログレを聴く会」に赴いた。2時開演の30分前に地下鉄の心斎橋駅に降り立ち、地図をメモした紙を片手にアメリカ村に入り、そこから西に進んだ。10数年前に大阪市立図書館によく通った時、近年若者に人気のある堀江地区を通って二、三度難波まで歩いたことがあるが、土地勘は全くない。それに筆者は方向音痴がひど過ぎる。日差しの傾きで西を意識したのに、やはり道に迷った。今日の最初の写真の地図は本当は細い鉛筆描きだが、画面で見えやすいように画像加工ソフトで濃く太くした。碁盤目状であるからわかりやすいはずなのに、道筋だけで目印になる建物を記さなかった。そのことを悔やんだ。充分演奏に間に合うはずなのに、堀江の北から南の縦横の道路を何度も歩き回った。立ち止まってスマホで何かを調べている女性に声をかけると、観光客のようでわからないと言う。公園のそばの交番に入ると、警官がいない。筆者はスマホを持たず、家内に電話するにも公衆電話がない。昨日より薄手の上着で出かけたのは正解で、焦ったことと歩き回ったことで開演の2時には汗まみれになった。狐につままれた気分で歩き回っている間、とても気になった場所がある。若い女性を中心に4,50人が列をなしていたのだ。その傍らをキョロキョロしながら歩くには勇気がいるが、2時半を過ぎた時、もう一度その女性の群れを遠目に見ながら、地図で示した場所はそこしかないと思い直した。そしてその道に入り、女性の群れに分け入ると、列の向こうに小さな「FUTURO CAFE」の文字が見えた。迷路の中を1時間10分も歩いてくたびれたら、ようやく見つかったらびりんすで、武田さんの演奏が終わったばかりであった。コーヒーを注文し、客の最後尾で飲み始めると、武田さんが横にやって来た。遅れたことを詫びると、「大山さんは昨日も見たので……」と言われた。そうこうするうちに金森さんが見てほしいと言っていた児玉真吏奈さんの演奏が始まった。昨夜金森さんから彼女はシド・バレットの曲も歌い、P-VINEからアルバムを出していると聞いた。予備知識なしに演奏に接するのもいいが、今朝出かけるまでの20分ほど、YOUTUBEで演奏を聴いた。誰でも同じ感想を抱くと思うが、声に大きな特徴がある。ややハスキーな声で、ジェーン・バーキン、大貫妙子、ビョークを足して割ったようなと言えばいいか、けだるさと蠱惑さと透明感が入り混じる歌声を聴いていると、懐かしい60年代に引き戻されるように感じる。

バーキンのようなバタ臭い肉体感はないが、特徴のある、つまり本人自身が最大の武器として自覚しているはずのその声は、一度聴けば即座に記憶に留まるもので、その瞬殺力に魅せられる男が多いことは容易に想像出来る。筆者は女性のヴォーカルは男性のものよりはるかに好きで、前に書いたことがあるが、好きな女性歌手の歌に浸っていると、それ以上は何も望むものはないと思う。世界が終末を迎える時、最後に残るのは女性の歌声ではないか。言い換えれば、世界で最もかけがえのないものは女性の歌声で、そういう思いにさせてくれる歌手がもっといないかと出会いを探している。そのようにして男は好きな女性歌手のファンになり、児玉真吏奈さんの声に方向感覚を失う人がいる。今日の彼女は演奏の合間に少し語った。ポール・マッカートニーの初来日公演の日にエディ・ジョブスンの公演が大阪であって、それを見に行ったと言う。シド・バレットとエディ・ジョブスンとなると、彼女が理想とする美形で細身、長身という男像が見えそうな気がするが、バーキンとゲンズブールのカップルがとても似合っているように、確かに児玉さんの声には美男子がぴったりだ。ただし、そう考えて現実にそういう男がいるのかどうか。そのことを筆者は演奏が終わった後の彼女に最後尾でもどかしく伝えた。彼女の声に魅せられる多くの男がいて、一方彼女に現実に親しくしている男がいるとして、それがバーキンとゲンズブールのカップルにおけるゲンズブールであることを想像しにくい。もちろん彼女は素敵な男性を恋人にし、また男性の取り巻きも多いと思うが、彼女の声色に匹敵する風格ある男をイメージしにくい。その欠落を彼女の歌声が感じさせる。では彼女が孤独かと言えば、そうではないだろう。彼女は自分の声に満ち足りている。誇示していると言うのではなく、捉え難い思いや事柄を淡々と描写する。芸術とはすべてそういう捉え難いものを他者に感じさせることで、その方法は無数にあるが、落ち着いた静かな声で語ることは会話においても最も効果があり、児玉さんの歌もそれを熟知している。話は変わるが、今日はレザニモヲさんがライヴ終了後にやって来て、その女性が「さあや」と呼ばれていることを知ったが、ドラムスの男性の「963(くろみ)」さんも交えて談笑している最中、筆者は今回の武田さんのツアーで知った女性ミュージシャンをそれぞれ花にたとえてみたことを伝えた。今日梅田に向かう電車の中で、武田さんはピンクや深紅、白などのコスモスの花畑のようで、さあやさんは小さな白菊の花束、そして面黒さんは篝のある夜桜、児玉さんは一輪だけ咲く白百合を連想した。そして白百合の雌蕊の柱頭が濡れている様子を児玉さんの歌声に重ね、かぐわしい香気と、そして冷気を一瞬覚えた。

「プログレを聴く会」は各自が持ち寄った音源や映像を順に披露するものであったが、金森さんがもっぱら話した。筆者は最後尾で児玉さんや武田さん、レザニモヲのさあやさんと順によく話したので、半分ほどしかどういう曲が鳴っていたか記憶にない。始まって間もない頃、金森さんは「プログレを聴き飽きるとフォークに行きます」と笑顔で言いながら、CDをかけた。アコーディオンとアコースティック・ギターの軽快な伴奏が始まり、その耳慣れない響きの中、金森さんはその曲が含まれる同じCDを3枚ほど手にして、ひとりの女性を紹介した。FUTUROの店員だ。話は前後するが、40分遅れで店に入った筆者は、最後尾に座っていた児玉さんと目が合い、支払いや注文は前でといったことを小声で言われた。前に進むとマスターと店員の彼女がいて、マスターは店員に筆者のことを小声で「出演者」と伝えた。筆者はコーヒーを注文した。自宅でたっぷりとカレーライスを食べて出かけたためと、歩き疲れたので喉が渇いていたためだ。また長丁場の催しの中、食事をする客が目立ったが、筆者は空腹を覚えなかった。5時頃だったか、ふと店員の女性は最後尾にいた筆者の前に姿を見せた。そして先ほど金森さんが流したCDと、そしてカラフルな名刺を差し出した。最上部に「シンガー・ソング・ライター」と印刷されている。名前は「ニエリエビタ」でかなり変わっていて、名字の一字を前に持って来たと言う。CDは1500円で、無料でもらっていいのかと恐縮しつつも、黙って受け取ることにした。そして、金森さんが紹介した2曲の冒頭部を聴いただけだが、「風」という曲がとても印象的でよいと伝えた。彼女は喜び、ぽつりぽつりと生活と創作の間の苦しみとその克服について話し始めた。純粋で正直と言えばあまりに月並みだが、子どものまま大人になった彼女で、創作が生きる力を与えている。中島みゆきを思わせる顔立ちだが、性格も似ているかどうかはわからない。ニエリエビタさんの歌声は小さな子どもをあやしながら包み込む愛情にたとえてよい。母性と言えばまだ若い彼女は顔をしかめるかもしれないが、純真な子どもの心に対峙してそれに万全に応えている優しさに溢れていて、また力みがない。帰宅してCDをひととおり聴き、4曲目の「風」をリピートで再生し続けながら、CDの感想はいずれ改めて書くことを思っている。彼女を何の花にたとえればいいか。真っ先に浮かんだのは真っ赤な鶏頭だ。筆者はそのくねくねと折りたたまれた頂上部から、筆者が子どもの頃、母が筆者にしっかりと持たせて解いた古い毛糸の編み物を思い起す。母の手の毛糸の丸い玉が大きくなるにつれて、筆者の手元の編み物が猛速度で解けて小さくなって行った。そしてその頃から鶏頭の花を見るたびに筆者は母を思い出す。