消化し切れていないが、今夜、京都の大宮高辻にあるライヴハウスBlueEyesで見た感想を書いておく。今日の題名のとおり、3人の女性が順に出演し、最後はザッパ曲で締めくくられた。

3番目に演奏したレザニモヲは、キーボード、電子マリンバ、ヴォーカル担当の女性(名前を訊こうと思いながら遠慮した)とドラムス担当の男性とのデュオで、YOUTUBEで見るのと印象がはるかに違い、分厚い音を出す。演奏がすべて終わった後のサイン会でレザニモヲのドラムス担当の男性と少し言葉を交わし、また握手したが、手はグローヴのように大きく分厚く、どれほど叩き続けて来たかが想像出来る。またとても快活でさっぱりした人だが、これは女性の方もそうで、彼らの人柄に惚れるところがある。昨夜の帰りは筆者が最終電車に間に合うことを気にしながら、彼女と天六の駅まで10数分歩きながら話し、電車に乗ってからもずっと話し続けた。もっぱら筆者がしゃべったので、彼女は退屈したと思うが、それはそれでいつか彼女がわかることもあるだろう。彼女は京都壬生の在住で、数年前に出来た四条大宮の音楽スタジオで練習している。そのスタジオから速足で5分ほどのところで今日のライヴがあった。レザニモヲはそこでほぼ毎月演奏していて、YOUTUBEに映像を載せるファンもいる。その人は桂在住で今夜少し話したが、レザニモヲのライヴに注目して見続けている。今夜も撮影していたので、投稿されるかもしれない。レザニモヲの女性は4歳からピアノを習った。お決まりの『バイエル』を学んだが、それが退屈だったようで、湧いて来る思いをそのまま演奏する方向に進んだ。今でもピアノ教室では『バイエル』を重視しているのかどうか知らないが、基本が大事である一方、それが子どもにはあまりに退屈であると、そこでピアノ嫌いになるのではないか。子どもの頃からピアノを練習してクラシックのピアニストになるのはごくごくわずかで、それ以上にピアノ嫌いになる人が多いのではないか。筆者の甥も子どもの頃からピアノを習いながらさっぱりものにならず、むしろ音楽嫌いになった。ピアノ以外にいろんな習い事を毎日したようだが、それらすべてが無益同然で、芸術と無縁の生活を送っている。それは極端としても、『バイエル』を習う子どもの中に、創作という自己表現に向かう者がいる。『バイエル』の真の意味や目的はそういう人物を育てることだろう。レザニモヲの女性や武田理沙さんは、そういう意味で『バイエル』の本当の意味を理解した。さて、昨夜のレザニモヲの女性はごく普通の色白で痩せた、目立たない印象があったが、ステージでは衣裳や仕草、また独特の語り口から雰囲気が一変した。それがライヴの醍醐味で、演者と観客との関係が際立つ。これは演者が神がかって憑依するためでもあるが、それは芸の力であって、古来どの国でも存在し続けている。

その最先端の形態が、日本では縁日での神社や寺の境内ではなく、電気音を多用したライヴハウスという閉じた空間で見られる。京都や大阪では路上ミュージシャンがたくさんいるが、最近四条河原町で見かける全身を真っ黒に塗って彫刻になり切った若い男性もその部類に含めてよい。レザニモヲの演奏を聴きながら、平安時代の白拍子を思い出したが、芸術家という理念がなかった当時、士農工商から外れた者はみな社会のはぐれ者で、今もその立場は基本的には変わらない。ところが、戦後は芸能産業が拡大し、幼ない頃からTVの人気者になって金儲けをさせようともくろむ親がいる。今は、陰にいる大人が子どもを喜ばせる芸を子どもにさせる全盛時代で、その巧妙に仕組まれた産業の中で神事に携わる巫女から白拍子につながる芸の意味が看過されている。レザニモヲがそういう風潮に反旗を翻しているかと言えば、そういう確たる思いはなく、ただ好きなことを好きなようにしているのだろうが、当人の自意識はさておき、筆者は今夜のライヴハウスで、TVといったマスメディアには登場しない音楽の芸に携わる若い女性を目の当たりにし、また供給と需要の関係に思いを馳せた。ライヴハウスは数十人入れば満席で、出演者のギャラはそこから想定されるほどしかない。70歳記念で70か所近くの大きな会場で演奏を続けるジュリーとは収入は桁違いだが、音楽もそうかと言えば、そうではない。演奏が下手であるから客が少ないのではなく、日本での芸能における人気はかなりの部分、宣伝の力による。もちろんそのことをよく知っているファンが、自分の好きなミュージシャンのライヴに駆けつけ、客の大小にかかわらず、演者は自分が作り出す音空間に満足するが、ジュリーほどではなくても、演者にとって客は少しでも多い方がいい。金森さんと昨日話したが、ネットで情報が広く拡散する時代になったとはいえ、ライヴハウスで地道に活動を続ける若いミュージシャンの人気が爆発的に広がらない。それは白拍子、傀儡師の役割をTVに出演する者たちが担い、観客は無料でその芸を楽しめるようになったことと、ネットが無料で視聴出来るYOUTUBEを生んだことの影響が大きい。CDが売れないのも同じ理由だ。そして、芸の受け手である一般の人たちは、芸を披露する人に対して冷淡でもある。蟻とキリギリスの童話を小学校で学んだ時、学校は蟻としての生き方を勧めた。好きなことばかりし続け、寒い冬が迫った時に羽を打ち枯らして死ぬのは自業自得ということだが、その考えは近年はより世間に広まっている。その無慈悲の中で芸を目指す者がどのように生き残っていくべきか。ザッパは「死んでたまるか」と思い続け、膨大な作品を遺した。武田さんはザッパ以上に多作の音楽家として死にたいと言う。その一言で彼女の決意がわかる。

今夜最初にステージに上がったのは面黒楼卍で、「めんくろうまんじ」と読むと思う。おどろどろしい名前で、筆者は最初バンドかと思ったが、キーボードを終始奏でながら独唱する若い女性だ。今日の最初の写真はステージが終わった直後、物販席の真正面にあったスクリーンを撮影した。ライヴが始まるまでの間、暗い店内で彼女から自己紹介され、10分ほど立ち話をした。大阪で活動していたが、近年京都で演奏するようになった。その目つきがどこかで見覚えがあると思いながら、帰り道でようやく思い出したのは、シルヴィ・ヴァルタンのシングル盤「アイドルを探せ」のジャケット写真だ。その写真を筆者は中学1年生の時に見たが、大人の色気に怖気着いた。そして大人になるとはそういう色気を発散する女性を相手にすることと思って内心期待もしたが、面黒さんにはそういう女独特の存在感がある。それは努力して具わるものか、女なら誰しも装うことの出来るものか、老齢になった筆者はいまだにわからないでいるが、女の業と言えばいいか、自分の内側にある女性性を凝視し、それを音と言葉で他者に伝えることを人間として業と思っているようなところを彼女の演奏に感じた。白拍子の言葉を持ち出すのであれば、彼女の方がふさわしいかもしれないが、一方で浄瑠璃や講談を思い浮かべた。ステージに上らない彼女は面黒楼卍のひとつひとつの文字にふさわしい、どこか近寄り難さがあるが、ステージ上ではもっとで、その連綿と奏で、歌われる30分ほどの間、筆者は泉鏡花の小説の世界に近いかと思いつつ、一回のライヴで彼女が使い果たすエネルギーの大きさを思った。それほどに聴き手を圧する。さて、武田さんは最初の面黒さんの次に登場し、その次のレザニモヲさんの後にもステージにひとりで立った。最初はCDに収録される「Island」で、特徴のあるメロディが印象に強い。2回目でのステージで披露された曲はキーボードの各種のつまみを頻繁に回し、忙しい料理人を思った。彼女の音楽は料理を思わせる。いろんな味つけをほどこし、濃厚で摩訶不思議な味がする。あまりにいろんな味が混ざっていて、飲み込めないようなところがあるが、それは彼女自身がホームページに書くCD収録曲の解説からもわかる。そこには彼女がアルコールに強いことと、また飲み過ぎで吐くこともあると書かれるが、そういう状態を曲にしてもいる。今夜の彼女はハイボールを4,5杯は飲んでいて、半ば夢心地で2回目と最後のジャムを演奏したのではないか。最後のステージは女性3人とレザニモヲのドラマーとの共演で、これがザッパ曲であった。その意外性と迫力に最前列に座っていた筆者は落涙しそうになった。レザニモヲ単独ではレパートリーにザッパの「ブラック・ページ」が含まれていたが、最後の4人の合奏では「デスレス・ホーシー」から始まって「イースターの西瓜」に推移した。武田さんのソロはザッパのギターのメロディをなぞるなど、ザッパ・ファンには最高のハロウィーンの贈り物となった。