ぴったりと密着して聴いたと言うにふさわしい25日のディスクユニオンでの20分ほどの演奏と今夜のグランドピアノによるザッパ・メドレーで、ツアーはまだ半ばだが、感想を書いておく。

以前の投稿で今夜初めて彼女と顔を合わせた方が緊張感があっていいかと書いたが、仕事の区切りが出来たことと、めったにない機会を逃さない方がいいと思い直した。今夜金森さんから聞いたところによると、ディスクユニオンでは店内でのライヴをしばしば実施するが、昨夜集まった40人ほどは珍しい大入りであったそうだ。筆者は演奏が始まる前には後方にいて、演奏前の武田さんの姿をかろうじて撮影出来た。それが今日の最初の写真だ。ほかの人が動画も含めてもっといい場所から撮っていて、それらはネット上に出るはずで、筆者の写真は個人的な思い出のためだ。写真から伝わると思うが、武田さんは小柄で「かわいい」という言葉がふさわしい。TVでは普通に見かける、妙に済まして注目を浴びたいような媚びの態度は皆無で、終始笑顔と言うより、かなりのゲラ、つまり笑い声を上げて話すので、出会った人は誰でもすぐに親しみを覚えるに違いない。そしてそういう彼女の演奏はとても力強く、風貌との落差にまた驚く。音楽の才能は若くして芽生えると言われる。大作曲家がだいたい早死にであるのは、若い頃から才能を充分に発揮したからと考えてよい。今夜の彼女の話から三十路を迎えたと知ったが、創造への熱意が常に沸騰して溢れているという状態で、頭の中にあるものをとにかく形にせずにはいられない。生きている間にたくさんの作品を遺すことが夢と言うのであるから、クラシックのピアノ曲を楽譜どおりに演奏する道ではなく、好きな音を好きなように奏でる行為に今後も邁進して行く。これはたとえばドビュッシーの曲を学んでいた時、そこに思い浮かべた光景から別の音を聴いたということだろう。ドビュッシーの曲に限らず、大作曲家の曲をそのまま演奏し、それが他の演奏家との解釈と異なることを創作行為とするピアニストは今後もなくならないが、聴き手にすれば同じ曲のわずかな差異を楽しむことであって、その差を音楽における最大の意義と思うかどうかで、クラシック音楽ファンの度合いが測られるところがある。筆者もそういう聴き方をして、たとえばラヴェルやそのほか好きな大作曲家の演奏を多くの演奏家のCDで聴き比べているが、道を歩いていてふと思い出すメロディは誰か特定の演奏家のそれではなく、ラヴェルのという思いがする。つまり、演奏者より大作曲家の個性が前面に出る。それはそうあるべきだろう。そこにたとえばグレン・グールドを思い出すと、筆者はきわめて個性的な解釈による彼のピアノによるバッハ曲よりも、たとえばリヒターの演奏の方を好む。楽譜どおりに演奏するのに演奏者の強い個性は不要と思うからだ。個性を強く主張するならオリジナル曲を演奏すべきだ。

武田さんのピアノによるザッパ・メドレーは、ザッパの曲を元にしてはいるが、ザッパはピアノ曲に編曲しなかったので、たとえばラヴェルによるムソルグスキーの『展覧会の絵』のオーケストラ編曲とは反対の方向にあって、また原曲に潜む普遍的な持ち味を露わにしているという新鮮さがある。ザッパの曲はザッパの演奏で楽しめばいいではないかという思いは、たとえばビートルズの曲をそのまま声色も楽器も模倣するバンドの演奏で聴く時の何とも言えないフェイク趣味から理解出来るし、これまでたくさんのザッパ曲をカヴァーするバンドにも大なり小なりそのことは当てはまったが、武田さんの演奏はザッパ曲を古典として解釈して、たとえばドビュッシーの曲と並列に置く。もちろんそういう演奏はわずかながらこれまでにあったが、ザッパの楽譜に忠実に演奏するもので、ジャズ的な雰囲気はなかった。武田さんの演奏は楽譜に頼る場合もあるのだろうが、基本は聴き取りで、またザッパのバンドの多彩さを1台のピアノで奏でるからには技巧性は最大限に求められる。筆者はYOUTUBEで彼女のザッパ・メドレーの1、2番目を見た時、曲順は演奏のたびに交換出来るのかと思ったが、そうではなく、組曲として厳密に構成したものであることを彼女の言葉によって知った。つまり、即興はない。ザッパの原曲のアンサンブルの多彩な雰囲気をピアノで置き換えるところに分析力と構成力を必要とし、10数曲を選んでひとつの組曲とすることにもそれは要求されるが、その構成は彼女の裁量によるもので、そこにザッパに対する解釈があるが、彼女が愛聴するザッパのアルバムが『オン・ステージ』のシリーズであることを知って納得した。ザッパ・ファンはオリジナルのアルバムを、CD時代になってザッパが過去の未発表音源をつなぎ合わせた『オン・ステージ』よりも多く聴くはずだが、そのことに囚われると武田さんのザッパ組曲の選曲とつながりに多少の疑問を抱くかもしれない。だが、ザッパ自身がオリジナルのアルバムを解体した形で『オン・ステージ』集を発表し、そこでどの時代の原曲も全然違う時代の曲とつなぎ合わせることが可能であることを示した。また武田さんが取り上げるザッパ曲は歌詞がないものが多く、歌詞を意識せずに楽しめる。今夜は関西では初公開の3番目のザッパ組曲が演奏されたが、1,2番目と曲のだぶりがない。今後4,5番と組曲が構成出来そうに思うが、楽譜に起こさず、メモ程度のものを作っているだけで、演奏は大変な気力と努力が必要とのことで、今夜の3番目の組曲で終わりにすると聞いた。だが、彼女は自作曲の演奏と同時にザッパ曲を人前で披露することは楽しいようで、需要があれば新たなザッパ組曲を構成するだろう。

武田さんの昨夜の演奏は左側にノートパソコン、右側に小さなキーボードを置いて多様な音を紡いでいた。全体的に電子音楽っぽいが、鍵盤楽器を奏でるので当意即妙性はある。これはAIでは最も苦手とする。あるいは不可能と言ってよい。AIが武田さんの全人格にならない限り、武田さんが瞬時に何を考え、どういう音を奏でるかは把握出来ない。ディスクユニオンでの演奏と今夜のドラムス、ベース、ギターのトリオとの共演やグランドピアノによるザッパ曲によって、彼女の方向性がおおよそ見えたが、それは卓抜な技術で演奏する一方、彼女の内側で視覚的に広がっている世界を音で表現することで、ザッパと同じく自分の手で楽器を奏でることが基本にある。そのことは彼女のデビューCDだけではわからず、各地で頻繁に演奏を重ねて行くことで実力を知ってもらうのがいいだろう。ギャラの出ないセッションにはなるべく出演しないことにしたとも聞いたが、経済的な困窮とやりたいことの間にあってもがくのは、若い頃の作家は誰しもありがちだ。有名になっても収入に恵まれない場合は多々あり、また周囲が作り上げた虚像が豪邸で暮らすこともあって、誰もが才能に見合った収入を得ることはない。いつの時代でも芸術家は生きにくいが、密かな覚悟と自信があれば形は遺すことが出来る。AIの技術が進歩して、ついに絵も描けるようになったと昨夜のニュースで知ったが、筆者にすれば意味のないことだ。楽譜をコンピュータで鳴らすことはザッパもしたことがあるが、たとえばまだ正式な発売はない「ブラック・ページ」では、その出来ばえは人間による実演の方がはるかによく、そこにAIと人間との本質的な差を感じた。それから20数年経って、今ではその差ははるかに縮まっているが、AIと人間が違うからには差がなくなることはあり得ない。芸術はAIが得意なゲームではなく、AIは芸術の意味を永遠に理解出来ない。高級な老人ホームの住民を取り上げたNHKのTV番組があって、そこに70歳くらいのひとりで住む快活な男性がいて、少年が将棋の世界で勝利を重ねて行くことを報じるニュースに対して、「たかが将棋だろう?」と呆れ顔で言っていた。筆者はそれに同感で、日本は「たかが」と言ってよいものを異様に称え過ぎる。AIはいつか碁や将棋に潜む秘密をみな解明し、碁や将棋で食べて行く人はいなくなるだろう。一方、芸術は基本は手わざだ。もちろん手は頭と直結していてどちらも欠かせないが、頭が先であるのは言うまでもない。頭は思想で、これは解釈だ。決断と言ってもよい。ある条件下に自分を置いて瞬時ごとに決断するその集積が芸術作品だが、最初に措定する条件はAIでは人間が与えるから、昨夜報じられたAI絵画は人間が作ったものだ。そして、AIは芸術の意味をわからない連中が作っているから、芸術の重要性の過少評価はより強まるだろう。