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●「SYMPHONY NO.7 In E Major」
習するためにノートを探したが見つからない。確か1980年だったか、NHKのFM放送でブルックナーの交響曲を毎週紹介するシリーズ番組があった。



●「SYMPHONY NO.7 In E Major」_d0053294_00251169.jpg手元にそれを録音したカセットテープが15本ある。1本1曲がほとんどで、放送の説明はすべてノートに書き写した。そのノートが探し物をしている時にたまに出て来るが、そのたびに気になりながらまたどこかへ消える。気になるのはこのカテゴリーへの投稿のために読み返す必要を思うためだが、それには録音したテープを全部聴く必要もある。毎晩1本として2週間かかる。そしてそのような時間はとても持てないので、これまでノートを全部読み返していない。だが、カセットは交響曲7,8番をたまに聴く。たまにと言っても1年に一度あるかないかだ。7番は特に好きで、ミュンヘン・フィルをチェリビダッケが振った2枚組CDを発売当時買った。それが98年のことで、もうそんなになるのかと驚く。またFM放送から録音したカセットを聴き慣れて来たこともあって、チェリビダッケらしいその音は、ゆっくり過ぎてあまり好きになれない。とはいえ、先ほどそのCDを1階で聴き、次に午後9時に3階で録音テープを聴き始めると、今度はその演奏は少し速いかと感じる。カセットに録音した第7番はオイゲン・ヨッフムの指揮だと思うが、そのCDをほしいと昔から思いながら入手していない。聴き慣れたカセットで充分かと多少は思うからで、またその程度のブルックナー・ファンということだ。ブログを初めた頃、いずれブルックナーの交響曲を取り上げようと思いながら、全交響曲の成り立ちやブルックナーの生涯についてまとめた先のノートを読み返すつもりでいたことと、また必ず秋にと決めていたこともあって、なかなか機会が訪れなかった。それが3日前か、嵐山の中ノ島小橋でキンモクセイの香りをかすかに感じた時、第7番の第1楽章を思い出した。それ以降ずっと頭の中でその音楽が鳴り響いている。今夜は台風が襲来中だが、その非日常的な雰囲気の中、筆者は午前10時と午後4時にそのキンモクセイの香りを嗅ぎに行った。台風が接近中なのであたりまえだが、特に後者の時間帯は「風風の湯」の前や中ノ島、そして渡月橋に人影はなかった。悪天候の中、傘を差して長靴姿の筆者は、ブルックナーの交響曲の雄大な気分に浸り切り、帰宅後に1階で実際にCDを鳴らした。そして気分を高めて今日こそ感想をこうして書き始めているが、知識と言えるものは書くことが出来ない。全くの単なる思い出を長く書き連ねるだけのことで、ブルックナーの音楽の魅力を他者に理解してもらおうという気持ちは全くない。ただただ筆者がどのようにその音楽に出会い、今もたまに聴きたくなるかを書き留めておきたいと思うだけだ。
 FM放送でブルックナー・シリーズがあったのは、当時ブルックナーの人気が高まり始めたからだ。筆者は20歳頃にブルックナーの廉価盤LPを買った。その『ロマンティック』という副題のある第4番は今も持っているが、買った当時何度か聴いても、饒舌過ぎて捉えどころがないと感じた。つまり愛聴盤にはならなかった。そうなるとふたつの道がある。きっぱりと関心を寄せないか、いつか徹底的に聴いて魅力をつかむかだ。ブルックナーは大作曲家であり、若い筆者が1曲だけ聴いて魅力がわかるはずがない。筆者は有名な存在に対して、さして食いつきもしていないのにわかったようなつもりになることは嫌いだ。自分の耳で虚心に核心を確かめる。古典とされているものは価値があるからで、それを把握するには何度も咀嚼する必要がある。そのように考えることはあまりに真面目かもしれないが、歴史の風雪を経て来たものはそれなりの貫禄を必ず持ち合わせている。その貫禄の前でひれ伏すと言えばおおげさだが、それなりの尊敬は必要だ。それで、ブルックナーの交響曲がFM放送でよくかかるようになって来た70年代後半、FM放送をBGMとして仕事をしていた筆者は自然とブルックナーの味わいが何となくわかるようになって来た。そして簡単なスケッチを含めてブルックナーの交響曲が全部順番に放送されることになって驚喜した。1980年頃はまだカセット全盛で、CDはなかった。ブルックナー・シリーズは毎週日曜日の朝だったと思うが、朝が苦手な筆者はタイマーをセットして、ステレオの音を鳴らしながら自動録音していた。そして解説も含めて全部録音し、後で解説はノートに書き写し、音楽のみ別のカセットにダビングしたから、未知の音楽を学ぼうという意欲が強かった。筆者は同じことを吉田秀和によるモーツァルト全曲放送でも行なったが、FM放送をほとんど聴かない今、そういう音楽ファン向けのていねいなシリーズ放送があるのかどうか知らない。話を戻すと、第7番の放送が鳴り始めた時、筆者は半ば目覚めていた。そして半ば夢心地の中、墓のことを思い浮かべた。それでも陰気さはなく、明るさが勝っている光景の中の墓地だ。第1楽章は5,6分経った頃、音が次第に高まってファンファーレが鳴り響く箇所がある。それを布団の中で聴きながら一気に目覚めた。絶頂に至った後に高揚が突如へし折られ、また盛り返して行くのだが、その波のような寄せては返すうねりに、ベートーヴェンやモーツァルトにないブルックナーならではの個性がわかった気がした。へし折られた勢いはそのまま萎まない。またむくむくと勢いは湧いて来て、男らしいと言えば今は問題があるかもしれないが、勇壮で重厚、滋味があって陰影に富み、自分が魂になってドイツやオーストリアの平原を飛び交っている気分になる。
 ドイツ的と言えばバッハやワグナーを思い浮かべるが、ブルックナーもドイツそのもので、筆者はブラームスが春とすればブルックナーを秋と捉えるが、どちらもよさがあって比べられない。そこにマーラーを持ち出すとどうなるかだが、筆者はマーラーの全曲を聴いているのに、その魅力の本質がまだわからないでいる。マーラーはなかなかの切れ者という思いがするが、ブルックナーは武骨で田舎じみている。実際オーストリアのリンツ近郊の田舎の生まれで、40半ばにようやく認められてウィーンで教授になるが、生まれ育った土地の記憶を大事にし、それを武器としているところがある。開き直りというのではなく、つくづくその生地を慈しんでいるという感じがする。ブルックナーはマーラーと違って、女性との浮いた話が皆無で、女性に何度か求愛するも願いはかなわなかった。前述のシリーズ放送の中で、ブルックナーは女性の靴をたくさん集めていたというエピソードを知った。何十足だったか、それほどに女性の靴に偏執的になるのは、当時でも今でも変質者と思われる。そういう性癖ゆえに女性にもてなかったのかもしれないが、靴を集める収集癖は作曲に反映しているように思える。ブルックナーの交響曲は繰り返しが多い。どのような交響曲にもそれはあるが、特にブルックナーの曲では多く、聴いている間に居眠りをし、目覚めるとまだ同じ箇所を演奏しているという感じだ。第7番では繰り返しは第3楽章が特にそうだ。その何度も繰り返されるメロディによって曲が覚えやすい。その繰り返しを減らすと長さは半分以下に出来るが、ブルックナーにすればそれは出来ない相談で、繰り返す必然があった。その繰り返しはロック音楽やその後のミニマル系の音楽の先駆と捉えることは無茶だが、ブルックナーの音楽が20世紀の後半に一気に世界的に知られるようになったことは、時代がようやく追い着いたということも出来る。またそれだけ現代性を持っているからでもあろう。そして、靴を収集する性癖は旋律の繰り返しにもつながっているように思える。ブルックナーはバッハと同じく教会のオルガン奏者で、いわば人生の前半期は地味でしがない生活であった。そういう暮らしであるからこそ、作曲にあらゆる思いを投入した。そしてブルックナーが崇拝したのはワグナーで、そのことから派手で華やか、壮大で途方もない構築物に憧れたことがわかる。ワグナーはベートーヴェンの交響曲第9番に大いに感動して作曲活動をするが、ブルックナーはベートーヴェン、ワグナーの後を継ぐという思いを抱いたのだろう。それは田舎育ちにとっては大それたことかもしれないが、ワグナーのように楽劇、オペラというジャンルではなく、交響曲に限ればどうにかなると思ったのだろう。
 オペラは華やかな作品で、ブルックナーには似合わない。ではブルックナーに歌を取り入れた作品がないかと言えば、そうではない。第7番の後に続けてよく演奏される「テ・デウム」は合唱つきの宗教曲で、カトリック教会のオルガニストとしての前半生の経験からして生まれるべくして生まれたものだ。ウィーンで教授になってからブルックナーは俄然交響曲の作曲に目覚め、邁進する。ワグナーに心酔し、時としてワグナーに作品を献呈しながら、その作品はワグナー的な華やかさは皆無で、また控えめな印象を持ちながら、強い個性が溢れている。そしてそういう作品は、聴き手は若い頃よりも年齢を重ねるほどにわかるようになる。筆者はキンモクセイの香りとブルックナーをこれまで結びつけて考えたことはないが、先日はキンモクセイの香りからブルックナーを連想し、また秋にその交響曲が似合うことをつくづく思った。ブルックナーが7番を書いたのは還暦頃だ。当時はフランスではマネやモネの絵がサロンに入選せず、彼らの絵を「落選展」として展示した頃に当たる。洒落たマネやモネの当時の絵に比べてブルックナーの交響曲は前時代的な雰囲気が強いが、それは絵画と音楽、フランスとオーストリアの差でもある。ブルックナーの第7番の交響曲は初演当時から評判がよかったそうだが、筆者が半分眠りながら初めてFM放送で聴いた時、たちまちその魅力に捕らわれたことは正しい反応であったことになる。この7番はワグナーの死期を感じて作曲されたもので、筆者が半分夢の中で墓地を連想したことも正しかった。さて、ブルックナーのシリーズ放送で知ったが、ブルックナーは場合によっては何度か改訂し、また没後に他者が改訂したこともあって、レコードやCDでは何々版と記されている。チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルの第7番のCDはロベルト・ハース版と記されていて、これは戦後のノヴァーク版より古い。シリーズ放送では後者だったと思うが、細部に違いがあってもブルックナーはブルックナーで、その全体的雰囲気に差はない。そのような細部に影響されない巨大さがブルックナーの音楽の個性と言ってもよい。ハース版とノヴァーク版はシリーズ放送では出来る限り聴き比べがなされたが、版違いはほかにもあって、たとえば第3番は3つのヴァージョンが放送された。これはブルックナー自身が執拗に改訂を続けたからで、それも女性の靴をたくさん集めることから説明出来るような性質ではないか。今、BGMで聴いていた「テ・デウム」が終わったが、その最後の楽章は第7番の第2楽章と同じモチーフが使われている。そういう発見は聴き込むとほかにも見つかるのだろう。秋に孤独を大いに楽しむためにブルックナーの交響曲を聴くことはよい。これも今気づいたが、日付が変わった途端、台風の風が止んだ。
by uuuzen | 2018-09-30 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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