到着はさびしい。筆者はよく電車に乗ったり、変わった乗り物を操縦して見知らぬところに向かったりする夢をみる。そして必ず目的地に着かず、途中で道草を食い、目的地を忘れる。
一昨日もそんな夢で目覚めた。筆者ひとりがすっぽりと収まる白木の箱を筆者が運転するのだが、操縦桿はない。足で地面を一旦蹴ると、後は地面から20センチほど浮かんで、猛速度でそれが前進する。未来の乗り物のようでいて、夢の中で筆者はその箱が入院中の母が利用していた車椅子の反映であることを知っている。思いどおりに木箱を操って道路をぐんぐん進みながら、筆者は目的地に着くことを焦っている。道筋はあやふやが、だいたいの方角は合っているはずで、いずれよく知っている場所に出ると高をくくっている。すると目の前に突如、朱塗りの鳥居が横並びにふたつ現われた。神社の写真を撮り慣れているが、太い木材を使った重厚な鳥居が横に並んでいるのは珍しい。早速写真を撮ろうとすると、カメラを持っていないことに気づく。仕方がないので、左の鳥居の脇を通って先に進むと、拝殿や本殿らしき建物はない。神社の夢はめったにみないので、これは何かいいことがあるのか、その反対かと気になりながら、たいていの人は縁起のいい夢とばかりに宝くじを買おうとするだろうと思い、そして筆者はいいことなどあるはずがないとばかりに宝くじの考えを消した……。その後も脈絡のない場面が次々と登場したが、目覚めて最も印象的であったのは横並びの鳥居だ。撮影しようと思ったのにカメラがなかったことの残念さがよけいに鮮明に記憶させたと言ってよい。つまり、心のカメラで撮影したのだ。それはともかく、目指していた場所に着かなかったことに納得した。いつもそういう夢であるからだ。目的地に着くことは、本当は願いであるはずだが、着いてしまえばそれからどうする。そのさびしさを思えば、着かないままの方がいい。普段からそう考えていることが夢に反映するのかどうかわからないが、筆者は何かを成し遂げることよりも、成し遂げようとしている方が心地よい。これは何かを手に入れようとしながら、いつまでも手に入らない方がよいとの思いでもある。そこにはどこか嘘が混じるか。筆者はほしいものは何でも手に入れて来たし、これからもほしいものがあるだろう。だが、ほしいものが手に入らなくてもいいという思いも強い。これを禅では「無事」と言い、筆者もいよいよ「貴人」に近づいて来たかと思わなくもない。その一方で長年携わっている著作のことを毎日脳裏に浮かべる。それは悲願の花とでも言うべき仕事だが、いつまでも実現しないその本が、このまま実現しなくてもまあいいかと思うこともよくある。10数年もその本のために時間を費やして来ているにもかかわらず、それが世に出た後のさびしさを思う。
それでそういう気持ちにならないように別の夢を描いているが、それには10数年の間に家中を占めた本や資料などを片づける必要がある。つまり、本が実現しなければならないのだが、これは相手のあることでもあって、遅々として進まない。そのどうにもならない現実は、目的地に着かないという睡眠中の夢に反映しているのだろう。目的地に着かないことは、悲願を持っていないということだ。これがいいのかそうでないのかと言えば、筆者のような年齢になると、前述のようにもうあまり物事にこだわらないのがよいだろう。凡夫としては、悲願、念願を果たせば、もう燃えカスになるしかない。話題を変える。悲願ではなく彼岸が終わった。うまい具合に彼岸中には真っ赤なヒガンバナが目に留まった。筆者はこの花を何度か写生したことがあるが、作品にしたことはない。この花は友禅染に向く形と色だが、縁起の悪い花と思われていることもあって、友禅でこの花を染めた作例を知らない。一方、日展系の公募展の染色部門ではこの花はたまに作品化される。それらはローケツ染で、この花の冴えた形をほとんど表現出来ていない。それはいいとして、ヒガンバナはすぐに萎れて姿を消す。40年ほど昔、筆者はこの花を写生しようと思ったのはいいが、彼岸を少し過ぎていたため、見つけられなくて困った。そこでちょうど大阪の友人Nがバイクで京都までやって来たので、筆者は後方の座席に乗せてもらって梅津から嵯峨、嵐山と周り、わずかに1,2本残っていたこの花をNに撮影してもらった。残念ながら枯れる直前で、何とも頼りないその雰囲気に幻滅した。それでその後、何度か写生しながらそのままになっている。筆者好みの花というのでもないからだが、眺めるのは好きだ。また見るたびにNが筆者のために一肌脱いでくれたことを思い出す。Nは兄がいたが仲が悪く、1歳下の筆者を弟のように思い、常に優しかった。そのNが60前に亡くなったのは、何が原因かわからず、またあえて知りたいとも思わないが、Nの悲願がいずれ息子が経営するであろう中華料店のレジ係であったのに、それは全く非現実的な結果に終わったことにNが大いに幻滅したのかどうかは気になっている。親が子を思うことはあたりまえとして、親の夢が子に深く関係するものであることは筆者には理解出来ない。Nの息子がどうであれ、Nは自分の夢を追えばよかったのに、Nにはそれがなかった。あったとすれば金儲けだが、それは何かの手段であるべきだ。手段と目的を取り違えると生きづらい。Nとはそのような話を深くしたことがないが、Nには生きる目的、悲願というものがなかったはずだ。たいていの人はそうだろう。そしてそれでいいと思う。何かを遺したいと思っても、死者の何かを遺すのは死者以外の人だ。今日の最初の写真は18日、2、3枚目は19日に撮った。