ぞっこんだと言えるものが多くあるほど人生は楽しいと思うが、断捨離がよいことと言われる昨今、何事にもあまり執着しない生き方が好ましいとされているだろう。
ゴミを家の周囲にまで積み上げる人がよくTVで紹介されるが、それは病気として、家の中に物が溢れるのは長生きするほどにある程度は仕方がないかと思う。大きな屋敷に住む、あるいは蔵を持っている人はいいが、都会に住んでいると、部屋の面積が百平米を越える人は少数派であろうから、どうしても物が増えて居住空間は狭くなる。先ごろの北海道の地震では本で圧死した人がいて、眠っている寝室に本棚があったための事故と思うが、筆者が寝ている部屋には箪笥があって、地震でそれが倒れればやはり圧死するが、どの部屋の壁も物で埋まっているので、6月中旬にあった大阪の地震の時のように、強い揺れを感じて目覚めれば、階段やそれに続く短い廊下に出るしかない。最もいいのは外に逃げることだが、睡眠中では無理で、圧死を心配するのであれば何も置かない部屋に寝るべきだ。筆者は隣家を合わせれば優に百平米を越える居住面積があり、夫婦ふたりの生活では充分過ぎるはずなのに、隣家もどの部屋も物が溢れている。体育館のような広い部屋に住むことが若い頃の筆者の夢であったが、そんなところに住んでもどうせ物でいっぱいにしてしまうはずで、限られた少ない空間に合わせてあまり使わない物は処分しながら生きて行くのがよい。そう思いつつ、毎日のように本を買い、また品物が増える。そこで最近はようやく本当に死ぬまで手元に置きたいものが何かと考え、本ならば100冊程度に絞り、それをいつも取り出して読めるように最もよく過ごす部屋に特製の本棚を作って収めている様子を想像する。つまり、真にぞっこんなものだけで取り囲まれた生活だが、それをあらゆるものに適合することが可能かと言えば、やはり難しい。たとえば裏庭の木だ。ほとんど散歩をしない筆者は毎朝雀に餌を与えるために裏庭に出ることが楽しみで、ついでに庭木も見る。毎年適当に枝葉を剪定するなどのそれなりの世話をしていて、どの木もぞっこんではないが、さりとて全部伐採してしまうのはとんでもないことで、それと同じ思いが本やCD、伏見人形など、自分がいいと思って買って来たすべてのものに感じている。だが、誰かが書いた文章に、死の間際になって、育てて来た庭木や盆栽を全部燃やしたというのがあった。蔵書も含めて愛着のあるものを自分の手で目の黒い間に処分しようという気持ち、つまり自分しか理解出来ないものを自分の意思で行く先を決めたいことはわからないでもない。他者の手にわたって汚れてしまうことが耐えられないのだ。自分がぞっこん惚れ込んでいた物を、自分が生きている間に同じようにぞっこんになってくれる人が身近に見つかればいいが、まずそれは無理だ。
食べるものを始末して無理して買ったものでも、長年の間には愛着が薄れることがままあるから、人からもらったものにぞっこんになることはほとんどない。筆者は愛着のあるものをいずれ全部ネット・オークションに出品するかもしれないが、そうしないまま死ねば家内や息子はほとんどゴミとして業者に引き取らせる。それも回り回ってネット・オークションに出品され、誰かの目に留まって役立ててもらえる可能性があり、あまり心配することはない。そこで庭木を思うと、これは世話をしなければ枯れるだけのことで、また筆者はこれまでたくさんの植物をそのようにして来たから、死の間際に伐採ないし燃やすことをせずともなるようになる。そこで、生きている間に充分楽しめばよく、家内は玄関脇の植木にも水やりを欠かさない。そして、先日の台風襲来の直前、家内はいかにもか弱い白薔薇のヴィルゴの鉢を見ながら、風があまり当たらない場所に移動した方がよいと言い、筆者はその忠告にしたがって庭の隅に移動させた。それは正解で、雨にも濡れず、風にも負けなかった。そうそう、台風の翌日、家内は隣家の裏庭にあるはずの、去年大きな鉢に植え替えた蘇鉄が見えないと言った。そんなことはないはずで、今日ようやく隣家の裏庭に行くと、台風で横倒しになって地面の雑草に半ば埋もれていた。筆者ひとりでは持ち上げられないほどの重さで、ヴィルゴの植木鉢より数倍重い。それなのに横倒しになった。そこで思ったのは、災害を予期しての避難の大切さだ。今日は「風風の湯」でまた81歳のMさんと関空の連絡橋に衝突したタンカーの話になった。Mさんはその橋が使えなくなったことが原因で外国人観光客は激減したと言い、実際今夜の「風風の湯」もとても客が少なかった。それはともかく、裏庭の白薔薇は台風が去った翌々日にきれいに咲いた。およそ20日ごとに一花ずつ咲き、それら全部をではないが、撮った写真が3枚になったので今日投稿する。最初は8月3日、2枚目は26日、そして3枚目は今月6日だ。どういうわけかどの写真も薔薇の花が輝き過ぎて、花の周囲が白っぽく写る。花弁がどのように重なっているかがほとんどわからない不満よりも、神々しく感じられる楽しさの方が大きい。そのように写るのはそのように撮りたいためではなく、筆者のカメラの能力のせいであるはずだが、どう撮ってもそのように写ることは、筆者ならではのいわば一期一会だ。そのことは誰にも侵されない無垢なことで、それがVIRGOという白い無垢性の名前を持つ薔薇が体現していることに、さらに筆者ならでの一期一会的な意味づけをしたくなる。そして、そのような存在を自分が生きている間に自らの手で処分することなど、とうてい出来かねる。そう思いながら、白薔薇が茶色になし始めると茎から切り落とす。すると20日経てばまた一花咲く。