江坂の天牛書店には行ったことはないが、ネットで調べると1万円以上の本は送料無料とある。それで阪急電車で出かけることをせずに代金を銀行振り込みして郵送してもらった。
筆者の自分向けの誕生日祝いに本を3冊買ったのだ。本か食事かとなると、筆者は昔から前者を選んで来た。食べることが事欠いても本がほしい。そういう人はたまにいる。ところで、江戸前にぎりと謳ってはいないが、家内の妹の夫が寿司店を経営している。そのことを誕生日が過ぎてから思い出した。筆者は先日満67歳になったが、家内が前もって笑顔で、何かおいしいものでも食べに行こうかと二、三度言ってくれていていた。だが、筆者の思いは別のところにあった。筆者は自分の誕生日を本格的に祝うことをしたことがないが、還暦を迎えたことを母に言った時、えらく叱られた。母は筆者が何かねだっていると思ったのかもしれない。筆者は全くその気はなかった。母は還暦も喜寿も盛大に祝い、その時のことを家内は事あるごとに言う。還暦の時はあるホテルで中華料理を食べたが、きれいな若い女性が何人もいて、それぞれが料理を小皿に取ってくれた。まるで口まで運んでくれるかというサービスぶりで、緊張のあまり、また量も少なかったので何を食べたか記憶にない。夫婦で5万円支払った。四半世紀前のことだ。それより高価な中華料理を食べたことはないが、それはともかく、筆者が還暦になった時、「そうか、お前ももうそんな年齢になったのか」という言葉くらいを母からかけてほしかった。その7年前から母は理由もさしてないのに怒りっぽくなり、認知症が始まっていたのだと思う。それが周囲の者にはわからず、母の機嫌を取るために右往左往したが、母の怒りは2,3年前からなくなった。そうなってようやく認知症がかなり進んでいることがわかった。それはいいとして、寿司店を経営している義妹の主人は3年ほど前から癌になり、手術をした。ここ1年は会っていないが、いつまでも店を経営出来ない。筆者の誕生日にかこつけて家内と一緒に食べに行ってもよかったのに、そのことを思い出さなかったのは、筆者はよほど食べることに関心がないからだ。それで筆者は自分の誕生日記念に本を買った。本は毎月買っているので、祝いにはならないが、誕生日にネットで注文し、昨日届いた本は、特別のものだ。それを説明すると長くなるが、50年前に道頓堀の古本屋の天牛書店で10万円で買った古本13冊と対になるもので、3冊揃えの洋書だ。ネットを通じてフランスから本を買い続けていることは先日書いたが、その3冊もフランスから1冊ずつ個別に取り寄せようと思っていたところ、ネットの「日本の古本屋」を調べると、天牛書店のみにその3冊の在庫があった。しかもフランスの古書店から買う最安価格より2,3千円安い。
誕生日の食事は本に化けた。家内は不満だろう。昔友人から言われたことがある。「大山が貧乏で好きなことをするのか勝手だが、妻を道連れにするのは間違っている」。確かにそうかもしれない。普通の夫婦ならとっくに離婚どころか、そもそも筆者のような人間が結婚生活出来ることがおかしい。男はとにかく妻をさびしい思いをさせないように大いに稼ぐことが第一で、それを保ったうえで自分の好きなことをするのが優しさというものだ。だが、人生はいつもそのようにうまく事が運ぶとは限らない。50や60で夫が倒れて働けないようになれば、妻はさっさと夫を捨てて再婚かとなれば、そんな簡単に夫婦の仲が割り切れるか。家内はつい先日もある言葉を口にした。筆者と一緒になる時、家内の姉は筆者が家内にはあまり似合っていないと言ったそうだ。筆者が普通の男ではなく、家内は着いて行くことが難しいという意味だ。家内はそのとおりであったと言いながら、筆者が機嫌よく生活していることにそれなりに満足している。自分の誕生日プレゼントとして買った古本はほんの少し焼けているが、前の所有者はフランスで買ったままほとんど繙いていない。栞紐がページに挟まれてそのまま固まっていたからだ。それに発売当時の4つ折りの宣伝ポスター2部やフランスの書店のタイプライターで打った手紙も入っていた。天牛で買ったことは正しかった。そのことに大いに満足した。この3冊本は1976年にフランスで発刊され、その確か3年前に筆者は前述の古本13冊を道頓堀の天牛書店で買った。当時の10万円は大きい。本当に食べるものを始末して買ったほどだ。だが、その本は長年筆者の支えになった。今もそうだ。それどころか思いは増している。そして、その本とセットになる3冊を誕生日に注文した。そこにここ50年の筆者の旅路の果てのような感慨がある。家内は届いた本を見てまたかという顔をしたが、筆者にとって今年の誕生日はおよそ半世紀ぶりの特別なもので、50年前には知らなかったその3冊本が手元にあることを自分の成長として大いに喜んでいる。その本は1冊を除いて日本語に翻訳されていない。筆者は残りの人生でそれを訳したいと思っているほどだが、それよりもやらねばならないことがある。妹は最近筆者を見ながら、「兄ちゃんは呆けるかもしれへんな」と言った。母を見てのことだが、それを言えば妹もそうだ。母は昔から小説は好きで、去年まで読んでいた。それに縫物や編み物は昔から暇さえあれば自己流でやり続けて来た。それでも認知症になる。筆者は母に似ているので、80代になれば同じように認知症になる可能性がある。とはいえ、まだ80代に入るまで10数年ある。それはそうと、家内の誕生日が10月中旬にある。江戸前にぎり寿司はその時でもいい。