趣のある場所の筆頭は神社だろう。寺もいいが、拝観料を徴収するところが多い。だが、無料であってもたいていの人は日々の生活に追われ、地元の神社にめったに行かないのではないか。
先月21日、自転車で樫原の三ノ宮神社に行く途中、すぐ近くまで来ているはずなのに場所がわからなかった。初めての道はだいたいそのように迷う。焦りながら物集女街道から1本西に入った通りを南下していると、前方に40歳くらいの女性が歩いていた。追い着いて呼び止め、三ノ宮神社がどこにあるのかと訊いた。すると、長年行ったことがないのでよくわからないが、山手の方角を指しながらたぶんあっちの方だろうと教えてももらった。それは正しかった。近くに住んでいるのに長年行ったことがないのは、初詣は別の大きな神社に行くなどして用がないからだろう。三ノ宮神社はお祭りをすると思うが、それに関しても興味がなければそれまでで、神社としても神饌を強制は出来ない。それにこの神社は先日書いたように、本殿の奥から幼児たちの声がよく聞こえ、保育園がある。地図を確認するとその奥にはさらに幼稚園もあって、その北端は道路に沿って無味乾燥な白くて高い塀がめぐらされている。おそらく子どもたちの声がうるさいという近隣への配慮だろう。保育園と幼稚園の面積は神社の境内より広いようで、地元では神社よりも保育園、幼稚園として認識されているのではないか。その保育園や幼稚園の敷地はかつて神木が生い茂る森であったと想像するが、背に腹は代えられず、神社のみを自前で経営して行くことは困難だ。これは寺でも同じだが、生まれる子どもの数が減少の一途にある日本では、東京のような大都会は別として、保育園や幼稚園は少なくなって行くだろう。そうなればまた神社の境内に戻されるか、あるいはいっそのこと民間に売り払って家が建つかだ。そうなれば趣もへちまもない。どこにでもある眺めと化して、日本らしさが失われる。だが、それが少しずつ起こって行く変化であれば、ほとんどの人が気づかない。そして気づいた時には手遅れだが、気づくこともないだろう。そのようにして日本は少しずつ変化して今がある。そのように肯定的に捉える人もいるだろう。あるいはそこには仕方のないこととして諦めが混じる。それはともかく、保育園と幼稚園が隣接することは子どもたちの原体験としてはなかなかよい。大人になっても神社が隣りにあったことを覚えているはずで、そのことで前述の女性のように長年行ったことがないとしても、全く忘れることにはならず、また多少でも日本的な古いものに関心を寄せることもあるだろう。
今日は三ノ宮神社の境内の東にある天満宮を紹介する。写真はどれも先月21日に撮った。その経緯は先日の投稿
「その3」に書いたとおりだ。今日の4枚目の写真は三ノ宮神社の南面する鳥居で、帰りがけに境内の西側、つまり今日の最初の写真の鳥居の前から撮った。鳥居の奥数百メートルに細長い塔が見える。これが珍しいのであえて写真に収めた。調べると、これは樫原市営団地の給水塔だ。そのそばに行ったことはないが、物集女街道を走っていると遠目に見えることがある。同団地は山沿いにあって、かなり古そうだが、これが建った後にさらに西を開発して洛西ニュータウンが出来たのだろう。洛西ニュータウンのすぐそばにある神社は、西の芸大の南にある千丈天満宮と、東の大枝稲荷神社で、筆者はどちらも2年前に訪れて写真を撮った。前者は元は小さな寺で、神社になってからの歴史は浅い。後者は高校の裏手の道路の奥にあって、見えにくい。そのため、樫原の三ノ宮神社は樫原市営団地と洛西ニュータウンを合わせた広い地域の氏神としてよいが、洛西ニュータウンに感じる味気なさは三ノ宮神社から遠いことも影響している。それよりも味気ないのは幅の広い国道9号線が近くに走っていることだ。車に乗らない筆者にはなおさらそのように思える。この国道によって遮られる南北はあまり人の交流がないだろう。国道が出来て交通の便はよくなったが、あまりに大きな道路はそれが大きな川のように作用して、地元住民の交流を阻む。だが、筆者は先月21と28日にこの国道の信号を南にわたり、上桂からは、物集女街道ではなく、山沿いの道を進むと案外近いことを実感した。ならば国道がなかった時代はもっとそうであったはずだ。その様子を何度も頭に思い描こうとするが、古い地図をまだ調べていないこともあって実感が湧きにくい。それはともかく、自分が住む嵐山と隣接する地域の神社巡りをする中で、神社を中心とした広い地域を知り、歴史や現在の町並みなど、関心も広がって来ている。これは実際に神社を訪れることで培われるのであって、ネットで神社の画像などを見ただけではほとんど何の役にも立たない。また、道に迷って右往左往する方が、神社を囲む地域をよく感じられるから、「神社の造形」と題してはいるものの、関心は神社の建物などの施設のみではない。改めて言うまでもないが、筆者のブログは楽しみながら書くつぶやきに過ぎず、資料的価値は皆無だ。それは筆者がやらずとも、ネットに溢れている。
今日の1,2枚目の写真は南面する鳥居をくぐって左手で、1枚では収まらず左右に分けて撮った。最初の写真の鳥居の奥に見える派手な緑色は保育園、幼稚園の送迎バスで、それが停まっているのは境内北側に通じる細い道だ。つまり、園児たちは北から入るのでなく、鳥居の際から出入りし、神社を毎日見る。また北門はなさそうだ。先月21日は地元の消防団らしき制服姿の男性を2,3人見かけたが、保育園と幼稚園の消防訓練を行なっていたのかもしれない。鳥居をくぐって左手が天満宮の本殿で、その手前に朱塗りの小さな祠が真新しい玉垣に囲まれて建っている。中に白い狐の置物が数体あって、稲荷の社であることがわかるが、背後右手にある金属製の駒札にはそれについては書かれていなかった。また天満宮についてもそうであったと思う。保育園と幼稚園があるからには天満宮は似合う。また稲荷社は地元の商店主が求めたのだろう。この一画は数段の石段を上がった台地にあって、筆者は最初これが三ノ宮神社かと思った。背後の小さな森とともに田舎らしくてよい趣を感じたからだ。2枚目の写真の右端に男性が小さく写っている。筆者が写真を撮っている時はもっと近くにいた。真昼間に見知らぬ男が自転車を停めて入って来たので、不審者と思ったのではないか。そのことをあまり気にせずに撮影していると、遠慮したのか奥に引っ込んだ。神社の人なのか、あるいは保育園、幼稚園のバスの運転手か、筆者は逆に「真昼間に暇な人だな」と思った。稲荷社の背後、また最初の写真の鳥居の左手に役割が不明の建物がある。前者は御幣が下げられているので摂社か末社かもしれない。21日は再訪して三ノ宮神社の拝殿を正面から撮ったが、この鉄筋コンクリート製の建物の内部に天井絵があることをネットで知った。あまり古いものではなさそうで、通常の天井絵のように格子の奥に嵌めた板絵ではない。縦横格子4,5桁分ずつという大きな板絵を格子に張りつけたもので、絵馬かそれを作り変えたものに見える。三ノ宮神社の名前に応じて三神に因んだ三つの絵があると言えば、「禁門の変 殉難の志士」を描いたものもあって、全部で何枚あるのかわからない。またどの天井絵も四隅にスポットライトが取りつけられ、外が暗ければそれらが灯されるようだ。この天井絵を見るためにまた訪れてもいいが、近くを自転車で走ることはなさそうで、たぶん見ないままとなるだろう。