床ずれがひどくなって背骨が見えることがある。高齢で寝た切りになった場合で、家内の父が90代半ばで亡くなる頃はそうであった。誰しも誰にも迷惑をかけたくないと思いながら、人間はいつまでも元気であるとは限らない。
「風風の湯」で最近よく出会う筆者より2歳年長の男性は、百歳まで生きる時代になっているので、体力をつけておくに限ると考え、70万円の自転車で遠出をよくする。確かに大腿部はかなり太いが、腹が筆者より出っ張っていて、70手前の年齢は隠せない。百歳まで自転車で1日100キロほど走ることが出来ると思っているようだが、必ず体力は衰えて来る。運動嫌いの筆者は1日に100歩ほどしか歩かないことがあるが、頭は猛烈に使っているので体を大いに動かすほどのエネルギーは消費し、腹は減る。適当な運動が健康にいいことは承知しているが、動かし過ぎることもあるだろう。それはともかく、息子が帰省中でもあり、昨日の日曜日は母を家族3人で訪ねた。先月31日に家内と一緒に出かけて以来だ。ところが、母の様子はかなり変化し、また認知症が進んでいた。昭和4年生まれであるので今年89歳だが、その年齢では多少の認知症も仕方ないかもしれない。そう思うことにしているが、それにしても1か月経たない間に一気に老化したような姿を見るのは辛い。近くに住む妹によれば、先月末、筆者が訪ねた翌日に大きな変化があったという。上の前歯の入れ歯をどこへ捨てたか隠したのか、それが見つからないために人相がかなり違って見える。筆者は京都府立図書館で調べものがあったので、先に家を出て、それから母の家に向かったので、家内や息子よりも30分ほど早く母の家に着いたが、母は奥の部屋で眠っていた。妹によれば、今月に入って毎日昼間に眠るようになった。筆者は母を起こさなかったが、家内と息子が来たのでさすがにもう起こした方がいいと思って体を揺すったが、台所のテーブルの椅子に着いた母は、10分ほどは半ば夢の世界にいるような言動であった。それがある時点でスイッチが入ったように普段の話しぶりになった。それでも先月末の時に比べると半分くらいは別人だ。まず筆者の息子の名前を忘れている。同じことを繰り返し訊くのは以前と同じだが、その頻度が数倍に増し、1分ごとに同じことを口にする。そのたびに筆者も家内も同じように返事する。耳が遠い母はひとり暮らしも手伝ってますます自分ひとりの世界に閉じこもって来たが、日によってはまた記憶をかなり取り戻し、その後はさらに認知症がひどくなるということを繰り返して行くと想像する。痩せたとはいえ、ひとりで普通に歩けるので、寝た切りで床ずれが出来ることにはまだ当分はならないと思う。
今までとは違う認知症が進んだ母を見ながら、母の遺伝子を継ぐ筆者は四半世紀に同じようになることを想像した。だが、筆者には息子がひとりしかおらず、運がよくてそうなるのであって、もっと悲惨な老齢期を過ごす可能性が大だ。長寿は喜ばしく、今でも誰にとってもそれは大きな願いだが、長寿の「寿」が問題だ。これは元気で楽しいことであって、それが感じられなければ本人は辛い。ただし、人間はひとりではなく、取り巻く人が存在する。老いて認知症になっても親は親であり、子にとってはかけがえのないものだ。ところで、筆者が「姥捨て山」の話を知ったのは小学生の頃だ。今調べると7歳の時に映画『楢山節考』が公開されている。母はそれを見たのだろう。母を取り巻く大人たちがその映画の話をしていたことを記憶する。貧しい江戸時代の農家では口減らしのために歯が丈夫で健康な親を山に運んで置き去りにしたという話を聞き、筆者は背筋に冷たいものが走った。その後の日本は高度成長を遂げ、そのような悲惨な暮らしをする人はいなくなったが、代わりに超高齢社会を迎えて長命が自他ともにさして歓迎されなくなって来た。ネットでは現代版の姥棄て山を実施すべきという、おそらく若者の意見が出ているほどで、高度成長の後にとてもグロテスクな世界が広がっている。そういう意見を吐く若者は自分がどこから生まれて来たと思っているのだろう。それにその若者も気づけば高齢者になっている。間違いなくそうなる。そういう想像力のない者たちが政治家にもいて、超高齢者や認知症患者を「生産性」がないとの烙印を押すのだろう。筆者の母は退職してからは「生産性」のない人生を送って来たと言ってよいが、それは母や妹、あるいは筆者の責任か。「生産性」云々を言った政治家も明日はどうなるか、またどのような老後が待っているかはわからない。そのことは政治家の子や親にも当てはまるが、政治家はそういう想像力の片鱗も持ち合わせず、自分のことを選ばれた優秀な人材で、したがって「生産性」に富む代表と思っている。さて、ここから後半に入る。今夜たまたまTVで興味深いドキュメンタリーを途中から見た。2,3年前にも紹介されたことのある現代芸術家の折元立身(おりもとたつみ)とその母親の男代(おだい)さんだ。男代とは変わった名前だが、女ばかり生まれたので男代わりに生きろという意味が込められたのだったと思う。貧しい家に生まれ、中学を卒業して子育ての奉公に出された男代さんだが、結婚して立身を生んだ。その子どもの頃の写真が映った。とても利発な眼差しで、有名なパフォーマンス・アーティストになったことは納得出来る。
70年代から細長いフランス・パンを数本縦に顔面にくくりつけて街中を歩くパフォーマンスを海外でも始めていて、その後も一貫した創作活動を続けて来たが、母が認知症になり、また塞ぎ込むようになってからは目が離せなくなり、創作は変化を余儀なくされる。そこで立身が考えたのは、母を創作に巻き込むことだ。それは止むに止まれないことでもあったが、却って誰も真似の出来ない、またいかにも超高齢化社会をさまざまに考えさせる意味深い作品が生まれた。言葉は悪いかもしれないが、「生産性」のない母を見事に創作の中心として欠かせない存在「アート・ママ」として表現し、立身と男代は切り離すことの出来ない一体のものとなった。それは本来の親子の姿であるはずで、「楢山節考」で描かれる世界に対峙している。そして、それは立身が芸術家であり、またその活動を長年続けて来たことで昇華した作品行為であって、独創の点では世界に例を見ないものだ。だが、誰でもその立身と男代が一緒に写る写真や映像などを見ると、芸術以前に親子はどうあるべきかということを突きつけられる。2年前か、男代さんは97歳で亡くなった。その時の立身の泣きじゃくる姿を見ると、「生産性」がないと発言する政治家の貧しい心の中に思いが及び、別の悲しみが湧いて来る。番組では立身の部屋が何度も映った。ひとり暮らしでまたさほど裕福でもないはずで、狭い部屋は物で雑然としていた。金や名声に縁がなくても自己を表現する。これが芸術家のあるべき姿で、立身の作品は見事の一言に尽きる。パフォーマンスは70年代初めにハプニングといった言葉で登場した現代芸術のひとつのあり方で、当時ヨーコ・オノがそういう作品行為で名を馳せた。立身は筆者より5歳年長で、71年にニューヨークでフルクサスに出会ったというので、だいたいその位置がわかるが、ここ四半世紀は母の面倒を看ることと作品行為を合体させ、最先端の現代芸術を具現化して来たし、また創作意欲は衰えることを知らず、さらに変化している。パフォーマンスは具体的な作品が残らない創作だが、立身の作品は人々の心の奥に深く突き刺さって今後も忘れられることはないだろう。先日スーパー・ボランティアの大分に住むOさんについて少し書いた。Oさんも行為によって人の心を打つ点ではパフォーマンス・アーティストと同じだ。普通の芸術家は行為を物作りに託し、その物によって人に感銘を与えるが、物が溢れ、また物が簡単に処分される今の時代、物によって人の心を揺るがすことは難しい。それどころか、作者の嫌みな思いばかりが伝わることも多い。その代表が毎日のTVに登場する芸能人と政治家だ。とはいえ、ネットではもっとひどい輩たちが跋扈している。